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三鷹ネットワーク大学で吉村司さんの講演「父・吉村昭を振り返る」を聴講しました。

三鷹ネットワーク大学で吉村司さんの講演「父・吉村昭を振り返る」を聴講しました。

三鷹ネットワーク大学で開催された三鷹市主催特別講演会を聴講しました。
講師は作家の吉村昭さん津村節子さんご夫妻の長男・吉村司さんで、テーマは「父・吉村昭を振り返る」です。

吉村昭さんは都立井の頭恩賜公園近くのご自宅の書斎で、多くの作品を生み出しました。
吉村さんは筑摩書房主催の太宰治賞の第2回目の受賞者で、第1回は受賞者がいなかったことから実質第1号の受賞者です。
1999年度に、三鷹市が筑摩書房と太宰治賞を共催することになった際、吉村さんは選考委員でした。
2003年に私は三鷹市長に就任し、吉村さんと選考会で初めてお目にかかりました。
ご都合でその年度で選考委員を退任されることになりましたので、私は筑摩書房と相談して共催の文学講演会を開始することとして、最初の講師を吉村昭さんにお願いしました。
残念ながら、その後吉村さんは体調を崩され、2006年に他界されました時に、私は吉村昭さんに長きに渡る三鷹市の文学のまちづくりへのご貢献について特別感謝状を贈呈することとして、津村節子さんに受け取っていただきました。

その後、津村節子さんと吉村司さんと対話を重ねる中で、吉村昭さんが多くの作品を生み出した書斎を三鷹市内で保存し顕彰することとなりました。
そこで、慎重に検討し、東京都と協議して、「太宰治文学館・吉村昭書斎(仮称)」について2人の作者にゆかりの深い都立井の頭恩賜公園内に整備することとしまして、パブリックコメントを実施したところ、賛成の声と共に、都立井の頭恩賜公園内の整備予定の場所には野鳥等の生物が多くいることなどから反対の意見が寄せられました。
私は東京都、武蔵野市及び生態系保護のNPO法人や市民の皆様と協働して、都立井の頭恩賜公園内の井の頭池の復活を目指してカイボリをしてきた経験もあることから、このパブリックコメントを重く受け止めて、都立井の頭恩賜公園内の別の場所での整備を検討し、再度パブリックコメントを実施しました。
すると、それに対しても反対の声が寄せられ、十分に検討した結果、都立井の頭恩賜公園内での文学館と書斎の整備については中止することを決断しました。
その上で、設置場所を再検討する組織を設置し、吉村司さんに委員をお願いしたというご縁があります。

講演で司さんは最初に、吉村昭さんは多作であり、吉村昭研究会の桑原文明会長によれば小説だけで371作品あり、多くの作品が翻訳されて海外で読まれていると紹介しました。
吉村昭さんは、サラリーマン時代に小説を書き続けていたそうですが作品としてまとまったものは書けなかったとので、津村節子さんが第53回芥川賞を受賞されたのを契機に会社を退職し執筆に専念して、「今後1年間に芽が出なければ筆を折る」と宣言されていたそうです。
すると、1年も立たないうちに「太宰治賞」を『星への旅』で受賞され、『戦艦武蔵』がベストセラーになりました。

司さんは『星への旅』に所収の『少女架刑』の光景描写が秀逸であり、純文学は素晴らしいと感じたと語ります。
吉村昭さんは司さんや家族に作品をほめられるのを一番喜ばれたそうです。

また、吉村昭さんは戦争をモチーフにした作品を多く書かれていますが、証言者からのきめ細かい聞き取りを行うとともに、史実を根気強く調査して「脚色はいらない、史実だけが人を感動させる」と信じて書かれていたことを紹介しました。
司さんは今の年代になって、吉村さんの純文学だけでなく、史実に関する綿密な調査に基づく歴史小説における貢献を讃えたいと語ります。特に、『破船』は「記録小説的純文学の最高峰」であると評価しています。
そして、長男としては、吉村昭さんは「小説家の前に一家の主」として、家族を養う意識が高かったと受け止めているとのことです。
司さんは両親が作家であるとはいえ、随筆は書いたことはあっても小説は書いたことはないそうです。

講演の後に会場とオンラインで視聴している方から質問の時間がありました。
私は会場から、「吉村昭さんはお子さんからほめられることが好きだったとのことですが、司さんが父親としての昭さんからほめられて印象に残った言葉は何ですか?」と質問しました。
すると司さんは、小学生の頃、バスで幼稚園の先生に会った経過を作文に書いた時に、「司は天才だ、すごくよく書けている」とほめられたエピソードを紹介されました。
息子さんへの温かい眼差しと言葉を伺って、吉村昭さんの作家ではない父親としての優しさが伝わりました。

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