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石井宏子君津市長との対話から考える~台風15号で被害を受けた千葉県君津市を訪問~

  • 2019/10/02 21:21

10月1日(火)、9月9日の台風15号で長期停電を含む大きな被害を受けた千葉県君津市役所に石井宏子市長を訪問し、お見舞を申し上げるとともに、君津市の復興に向けて心ばかりの寄付を手渡させていただきました。
石井市長には災害対策に未だご多用の中、貴重なお時間を割いていただき、今回の災害対策のご体験を直接伺い、市役所内を見学させていただくことによって、地域の災害対策に関するご示唆をいただきましたので、皆様と共有させていただきます。

君津市の概況

千葉県君津市は、面積は318.8 km2と、16.42km2の三鷹市の約19倍の広さです。
8月1日現在の人口は84,198人です。(三鷹市は188,152人)
房総半島のほぼ中央部に位置し、東京湾に面した北東部には、世界に誇る新日鉄住金の製鉄所があります。

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君津市役所からみた市内の風景

区画された市街地が広がり、東京湾アクアラインを使った都心へのアクセスが容易で、東京駅には高速バスが運行されています。
今回私は、JR総武線から内房線につながる君津行の電車で行きました。
五井駅を過ぎると、沿線に急にブルーシートで保護をしている住宅が増えました。

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JR内房線で君津駅に到着

君津駅を降りると、マザー牧場行きのバスの案内もあり、房総丘陵の豊かな自然に恵まれ、四季折々のレジャーや観光にも多くの人を惹きつけている市です。 

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マザー牧場行きバスは君津駅前から

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君津駅で歓迎してくれた乳牛

君津市の被害と直後の対応の状況

2019年9月9日早朝に上陸した台風15号の被害は明け方より明るみになり、市内の送電設備のうち約50メートルの高さの鉄塔2本が倒れることもあり、広範囲に停電が発生しました。
2019年9月9日18時時点で、市内全域の約37,700世帯で停電状況となったということです。
2019年8月1日現在の世帯数は39,001世帯ということですから、9割以上のほとんどの世帯が停電とのことでした。

当時は、10日には停電が復旧するとの電力会社からの情報があり、市ではその見込みを信頼していたのことでしたが、9月10日の時点でも、停電約37,700世帯は変わらず、むしろ、倒木や土砂崩れ箇所(道路通行止め含む) 256か所、建物被害128件、負傷者9名(負傷者数等は9月10日16時現在)と、被害は拡大する状況となりました。 

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君津市のホームページのトップページ(https://www.city.kimitsu.lg.jp/)

そこで、停電に伴う市民の安全安心確保のために避難所(周西公民館、八重原公民館、周南公民館、小糸公民館、清和公民館、小櫃公民館、上総地域交流センター)を設置し、飲料水と非常食を配布し、特別避難所=生涯学習交流センター(妊産婦、乳幼児等のご家族を優先)を設置されました。
さらに、携帯電話の充電のニーズに対応するために、関係企業の協力により本庁舎で対応されたとのことです。

また、石井市長は、「近所に要配慮者の方がいないか、困っている人がいないか声を掛け合い、熱中症対策として、どうぞ十分な水分補給を心がけてください」と市民に呼びかけられました。
特に、停電の中で車中泊をされる方も多くいらしたことから、2日続けて車中泊をされる方は、「軽い運動を心がけ、エコノミークラス症候群にも留意を」と発信されました。  

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君津市役所庁舎外観

2019年9月10日には、直ちに、災害時応援協定に伴う支援として、埼玉県白岡市からブルーシート等の提供、(有)福田水道によるウォーターサーバーの設置等、NPO法人クライシスマッパーズ・ジャパンによる無人航空機による撮影被災状況の提供があったとのことです。
このNPO法人とは三鷹市も協定を交わしています。

石井市長は停電の被害は鉄塔が倒れたことによると当初は認識されていたようですが、実際には山間部の多数の倒木等の被害によるものもあることを、こうした調査等から再確認されたようです。
停電により、電話もつながらない状況もあり、市民の皆様の被害状況を把握しにくいこととなり、こうした際には、上空からの映像による把握が有用と推察します。

そして、9月11日を迎えて、石井市長は次のように市民にメッセージを出さなければならなくなりました。
すなわち、
「本日、君津市内の大部分で続いている停電について、夕方の東京電力の会見を受け、長期戦になることが判明いたしました。市に多くの市民の皆様から問合せがある中、未だ多くの地域において復旧の見通しが立っていないということは、誠に遺憾であり、市では、再度、体制の整備・調整に向けて、関係機関等への支援を要請しているところでございます」
と。

そこで、11日には、自治会の協力を得ながら職員が要支援者を個別に訪問し、安否確認等を実施し、女性警察官による避難者の心のケアや声掛けなどが行われました。
ブルーシートの配布も毎日1,000枚以上なされていきました。

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ブルーシートがまだ残る君津市の中心街

その後、順次停電が解消され、9月23日にはすべての避難所を閉鎖し、停電による断水のため市内各所で行っていた給水活動は、9月25日(水)をもって支援が終了しました。
また、練馬駐屯地の陸上自衛隊第一後方支援連隊は、25日まで君津市の清和公民館で、停電や断水でお風呂に入れない被災者向けに簡易風呂による入浴支援を行い、約2000人が利用したということです。

三鷹市の防災訓練で、自衛隊の皆様の入浴支援の実物展示をしていただいたこともありますが、被災地における入浴の重要性も再確認できました。

石井宏子君津市長との対話

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石井宏子市長を激励

私は三鷹市長在職当時、全国市長会の副会長として会長の特命で子ども子育て支援施策を担当するとともに、平成29年度には「女性市長による未来に向けた政策懇談会」の座長として、女性市長の皆様と政策に関する交流を深めてきました。
さらに、平成30年度には、全国市長会に設置された防災対策特別委員会の委員を務め、平成30年7月7日に発災した7月豪雨の際には、倉敷市に支援物資を送り、15日には倉敷市、総社市に義援金を持参して激励に伺いました。
さらに、岡山県高梁市、総社市には職員も長期に派遣しましたので、今回の台風15号による千葉県の停電をはじめとする大きな被害には心を寄せてきました。
しかしながら、現職の市長ではないことから、激励であれ被災直後に伺うのはご迷惑と考えて、激励に伺うべき時機を考えていました。

君津市の石井宏子市長とは面識はありませんでしたが、昨年の11月1日に市長に就任されて1年足らずで直面された、台風による想定外の長期の停電を含む災害対策に対応されるお姿を報道等で拝見して、市長の経験者としてぜひ直接お目にかかりたいとご連絡をしました。
そして、10月1日午前11時から面談のお時間を頂くことになり、君津市役所を訪問したというわけです。

石井市長は、集中的な災害対策のお疲れの様子も見られず、お元気に颯爽と姿を現されました。
心ばかりの君津市の災害対策への寄付金と、元気を出していただこうと、三鷹の森ジブリ美術館で購入したクッキーとハンカチーフを差し上げました。
すると、石井市長は三鷹の森ジブリ美術館のショップである「MAMMA AIUTO!」の袋をご覧になって、
「私は実は『紅の豚』の映画が大好きなんですよ」
と笑顔で言っていただきました。

お時間のない中でしたが、災害対策の状況について生の声を伺ったところ、石井市長は、ほぼ全市にわたる停電については、当初は翌日の10日には回復するとの電力会社からの見通しを信じて対応していたそうです。
ところが、11日の時点で、急きょ長期間復旧しないとの情報を得て、真剣に長期対応を覚悟した時の若干の当惑と、市民の皆様の為に頑張りたい気持ちを強く持ち直すという複雑な想いを語ってくださいました。

停電は、電力を使用する水道等のみでなく、電話等の情報の流通にも大きな影響をもたらし、市が当初において、正確な被災状況を把握できない困難に直面したとのことです。
加えて、住宅の被害は屋根の部分が多く限定的な傾向があり、在宅で避難する方が多かったので、避難所に来られる方が少ないこともあり、支援の具体的なニーズについて把握することが困難であったとのことです。

被災状況が正確に把握できなければ、対応についても即応が困難になります。
停電時における正確な被害状況の把握を可能とする情報入手・伝達手段の確保については大きな課題であることが認識されます。

そして、残念なことに、君津市では水害等での直接的な死者はゼロのところ、ブルーシートを屋根にかける際に転落して亡くなった方や、熱中症で亡くなった方がいらしたことに、石井市長は胸を痛めておられました。
現時点では、ブルーシートの対応については専門の協力事業者に依頼しているとのことですが、今回の災害時では、他市でもブルーシートを活用する際の死者や負傷者が多くいらしたことが報道されていることから、ブルーシートは配布することだけでは不十分であり、それを安全に活用することができる専門的なボランティアの確保などが今後の課題であると考えます。

石井市長は市長に就任して以降、現在ちょうど地域防災計画の改定を進めている時期であり、今回の経験から、たとえば本庁舎だけでなく、その他の公共施設における発電機の確保の在り方について検討していきたいとおっしゃいました。
また、農業の被害も大きく、停電の為に養鶏場の鶏が死亡したり、農業設備が被害を受けたりしていることから、営農の継続をあきらめる農家が出てきていることも大きな課題と思います。

停電が解消されても、り災証明の発行など、市役所が取り組むべき課題は多くあります。
君津市役所では、り災証明の発行業務を、東京都の職員と港区の職員が支援していました。

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り災証明の発行

市役所のガラスには、支援を受けた自治体等の名前が掲示されています。
そして、市民向けの情報も壁新聞のように掲示されていました。

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君津市役所内に掲示された支援自治体等

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市役所に掲示されている広報君津災害特別版

石井市長はこの間、市長に就任1年未満で大きな災害に直面し、「災害対策本部長」としての責任を果たされています。
「実は反省すべきことばかりです。」と謙虚におっしゃっています。

市長は、「新人だから」とか「初心者だから」などという言い訳はできません。
私は大学教員を経て50代で三鷹市長となりましたが、三鷹市長に就任直後に日中の集中豪雨の被害に直面したり、2年目には床上床下浸水200世帯以上の被害が発生した時間105ミリの豪雨に対応しました。
未経験の人間であっても、市長に就任した日から直ちに市民の皆様の生命・身体・財産を守るのが使命です。

石井市長は、この災害対策において、警察・消防・消防団はもちろんのこと、災害時の協定を交わしている関係団体、全国市長会、連携自治体等との連携の意義と必要性を痛感されたとのことです。
加えて、今まで対話する機会がなかった若い職員とも対話する機会を得て、市長として市民の皆様、職員の皆様との信頼関係が強化されたと感じると話されていました。

石井市長が、市民の皆様、市議会の皆様、職員の皆様と、この災害を着実に乗り越えていただくことを、心から願いたいと思います。

なお、君津市では、9月15日には任期満了に伴う市議選が告示され、22日が投票日であったとのことです。
報道で示された市選挙管理委員会の情報によると、台風で市議選のポスター掲示場205カ所のうち85カ所が壊れ、期日前投票所も15日時点で電気が通じていないところがあったとのことです。
任期を特例で延長できない状況の中、選挙に臨まれた市議会議員候補の皆様のご苦労、選挙事務を遂行された選挙管理委員会の皆様のご苦労はいかばかりかと拝察いたします。

今後、石井市長はじめ市職員の皆様、新たに選挙で選ばれた市議会議員の皆様のご活躍によって、市民の皆様の生活の復興と今後の災害に強いまちづくりの発展を心から願いつつ、緊急時にも関わらず私を受け入れてくださった石井市長はじめ君津市の皆様に感謝して、君津市を後にしました。

国立天文台第三代台長の海部宣男先生との想い出

  • 2019/09/23 17:13

三鷹市大沢に所在する自然科学研究機構大学共同利用機関国立天文台(以下「国立天文台」)の第三代台長を務められた海部宣男(かいふ のりお)先生は、2019年4月13日にご病気でご逝去されました。
ご葬儀はご遺族様ご親族様で営まれたとのことです。

そして、去る9月16日(月)の夕刻、国立天文台主催で「海部宣男先生を送る会」が挙行されました。
私は、ありがたいことに、海部先生と私よりご縁の深い多くの方々がご臨席されている送る会で、国立天文台の地元である三鷹市の前市長であり、海部先生が台長当時の市長であるということで、「お別れの言葉」を申し上げる機会をいただきました。
送る会を主催された常田佐久台長をはじめ国立天文台の皆様のご高配に心から感謝申し上げます。

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海部先生へのお別れの言葉を述べる

海部先生のご業績

1943年9月21日にお生まれの海部先生は、東京大学で学ばれ、電波天文学、赤外線天文学を専攻され、特に星間物質・星と惑星の形成に関する研究を推進されました。
大学院生当時から宇宙電波グループに参加され、日本初の先端大型望遠鏡である長野県野辺山の口径45m大型電波望遠鏡の設計から建設まで、中心的な役割を果たされました。

私は、1983年に野辺山を訪問し、大型電波望遠鏡の大きさに圧倒されたことを覚えています。 

海部先生は、特に波長が最も短い電波であるミリ波による観測の重要性に着目され、分子科学の研究者と協力して多くの新分子を宇宙で発見するなど、新しい分野である「ミリ波」の観測・研究を進められました。
このミリ波天文学の開拓の業績により、1987年に森本雅樹先生とともに仁科記念賞を受賞されました。
また、1998年には星間物質の研究により日本学士院賞を受賞されています。

1991年には、建設を開始するすばる望遠鏡プロジェクトのために、野辺山宇宙電波観測所から三鷹市の国立天文台本部に移られ、1994年からすばるプロジェクト推進部主幹、また1997年からは初代ハワイ観測所長として日本で初めての海外観測所を立ち上げ、またマウナ・ケア山頂でのすばる望遠鏡の設置を完成に導かれました。

海部先生との出逢い、そして、3つのエピソード

私が海部宣男先生と初めてお目にかかりましたのは、私が三鷹市長に就任した直後の2003年5月に、当時の台長でいらした海部先生を市長就任挨拶のために訪問した時でした。
海部先生は、1988年に就任された初代台長の古在由秀先生、1994年に就任された第二代台長の小平桂一先生に続いて、2000年にハワイでのすばる望遠鏡の建設を終えて帰国され、国立天文台長の第三代台長に就任され、3年目を迎えていらっしゃいました。

その後、海部先生とは多くのご縁をいただきましたが、その中から、3つのエピソードをお話しさせていただきます。

三鷹ネットワーク大学の創設と天文学の普及

私は市長に就任する前は大学教員でしたので、三鷹市にとって国際的な天文学の発展に貢献している国立天文台があることの意義は極めて重要であると認識していました。
実は、国立天文台と同じ大沢にあるルーテル学院大学で教員をしていた際には、教養課程の教科に天文学を設置しており、ご担当の非常勤講師の方がご退任される際に、後任の講師を国立天文台所属の研究者にお願いした経過もありました。

そこで、初めてお目にかかった際に、『それまで国立天文台と三鷹市教育委員会との連携は小中学校での教育でご協力をいただくなど多少なりともあったようですが、今後は、ぜひともさらなる連携強化をお願いしたい』と申し出ました。
すると、海部先生は、ご自身が台長に就任された年である2000年7月20日から三鷹キャンパスの常時公開を開始しており、2002年には第一赤道儀室、大赤道儀室が国の有形文化財に登録されていたこともあり、『三鷹キャンパスを、たとえば天文学を含む【自然科学公園】というような形で外部に開き、発展させていきたい』との構想を話してくださいました。

そこで私は、『実は一期目の市長の公約に【三鷹ネットワーク大学・大学院構想】があり、ぜひとも、市内の国立天文台、杏林大学、国際基督教大学、ルーテル学院大学をはじめ市外の大学とも連携して実現したい』とご協力をお願いしました。
海部先生は、『それはいい話であり、国立天文台と東京大学以外の他の大学との連携は重要であり、協力したい』とおっしゃってくださいました。

その年の9月から検討会の委員になっていただき、ご多用中にも関わらず会議にご出席いただいて、三鷹市のような小規模自治体では取り組みの前例がほとんどない、いわゆる【地域型の大学コンソーシアム】の検討に参画してくださいました。
そして、2005年10月に活動を開始したのが【三鷹ネットワーク大学(以下ネット大)】であり、海部先生をはじめ歴代台長にはこの大学を運営する「NPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構」の理事を務めていただいています。

ネット大は、「民(市民)」「学(大学研究機関)」「産(産業界)」「公(市役所等の公共機関)」「官(国の機関)」がつながり、それぞれが持つ知的資源を最大限に活かして協働し、三鷹市から全国に向けて、そして、未来に向けて、地域課題の解決を含む「まちづくりの新しい扉」を開く「大学研究機関との協働の新しいカタチ」を示してきました。

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三鷹ネットワーク大学のあるビルの外観

ネット大は開設以来、会員である大学研究機関と協働して、多様で多彩な講座を開講するとともに、三鷹まちづくり総合研究所での調査研究活動、国や都の公募事業、事業者や研究機関と連携した実証実験など、さまざまな研究開発事業に取り組んでいます。
国立天文台との協働の事例としては、創設当時の台長の海部先生と当時の国立天文台天文情報公開センター広報普及室長の渡部潤一先生(現在国立天文台副台長)及び縣秀彦先生のご提案によって、ネット大創設の年の11月からスタートした「アストロノミー・パブ」があります。
これは、国立天文台の教員がホストとなり、天文学や宇宙に関するテーマを設定し講師を依頼し、受講者というより参加者を募って開かれる「科学カフェ」の天文学バージョンとも言える科学学習の機会であり、毎月原則第三土曜日夜に開催されています。

ホストとゲストによる「トークタイム」が1時間、その後は講師や参加者同士と自由に対話を楽しむ立食形式の「パブタイム」です。
参加者が講師に疑問や意見を話し、参加者同士が楽しく語り合う機会が実現しています。

私も、三鷹市長在職時に、何度かゲストスピーカーとして参加した経験があります。
参加者は多世代で、天文学の市民への広がりを感じてきました。
2014年11月には100回を迎え、それから5年を経て約150回もの回数を重ねています。

また、ネット大では2007年7月から「星のソムリエ(星空案内人)」の養成講座が開始されており、2019年度は第11期が現在公募されています。
「星空案内のための天文講座」は、宇宙について学ぶだけではなく、学んだ知識を他の人に語れるようになるための連続講座です。

「星空案内人(星のソムリエ)」は、山形大学に併設された「やまがた天文台」を中心に活動するNPO法人小さな天文学者の会でスタートした取り組みで、出席やペーパーテスト合格などで所定の要件を満たすと「星空準案内人」の資格が認定されるしくみになっています。
<注>「星のソムリエ」「星空案内人」「星空準案内人」は山形大学の登録商標です。

その後、三鷹市と国立天文台が協働して、2007年から2011年まで「文部科学省科学技術振興調整費<地域再生人材創出拠点形成>」による「科学プロデューサー養成コース」も実施されました。

こうした経過を経て、2015年9月、JR三鷹駅前中央通りには、国立天文台・三鷹市・ネット大・株式会社まちづくり三鷹と、多くの関係団体との協働による「天文科学情報スペース」が開設されました。
ここでは、国立天文台の駅前サテライト機能を果たすような展示と情報提供が展開されています。

こうした「天文台のあるまち三鷹」における協働による天文学の普及の端緒は、まさに海部先生の台長時代にあるように思います。

世界天文年の実行委員長としてのご活躍と「国立天文台のあるまち三鷹」の深化

海部先生が国立天文台長をおつとめでいらした2001年4月5・6日、国立天文台、欧州南天天文台、全米科学財団の3機関において、ALMA計画が合意されました。
そして、2004年4月1日に、国立天文台は「大学共同利用機関法人自然科学研究機構」として新たに発足されました。

私は天文学の門外漢ではありますが、国立天文台が大学共同利用機関となったことは、学術の分野でも教育の分野でも、外に開かれた機関として明確に位置づけられたということであり、学問の発展のためにも、天文学の普及のためにも、本当に良いことだと感じています。

そして海部先生は、2006年に国立天文台長を退任されたあと放送大学教授に就任されました。
それに先立って、2005年には日本学術会議会員に推薦され、第三部(理学・工学)部長として、2011年までの6年間、天文学にとどまらず日本の学術全般のマスタープランの作成にもご活躍されたとのことです。

また、2009年は「世界天文年」であり、海部先生は国際委員会の委員をつとめられるとともに、研究・教育・普及など日本全国の幅広いメンバーによる「世界天文年2009日本委員会」の委員長を務められました。

なぜ、2009年が「世界天文年」とされたかというと、「天文学の父」と称されるイタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが初めて望遠鏡を夜空に向け、宇宙への扉を開いた1609年から、400年の節目の年であることから、国際連合、ユネスコ、国際天文学連合が2009年を「世界天文年(International Year of Astronomy:略称 IYA)」と定めたとのことです。
世界天文年の目的とは、世界中の人々が夜空を見上げ、宇宙の中の地球や人間の存在に思いを馳せ、自分なりの発見をしてもらうことであり、参加国数は約150の国と地域でした。

そこで、2009年より毎年恒例の国立天文台「三鷹地区特別公開」は、「三鷹・星と宇宙の日」という名称に変わりました。
そして、2009年世界天文年を契機に、国立天文台と三鷹市は「東京国際科学フェスティバル」「三鷹の森科学文化祭」を共催しています。

その一環として、国立天文台や星のソムリエの皆様のご提案があって、「みたか太陽系ウォーク」という、JR三鷹駅を太陽に位置付けて、三鷹市内を13億分の1の太陽系と見立て、参加者が市内を歩き、水星、金星、火星などの位置にある事業所や公共施設でスタンプを押しながら、宇宙を実感するスタンプラリーが誕生しています。

みたか太陽系ウォークでは、スタンプを置く協力事業所が年々増えるとともに、スタンプを押す参加者も年々増加して、市内に科学文化による活気をもたらしています。

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みたか太陽系ウォークスタンプラリー

2019年も9月20日から第11回みたか太陽系ウォークがスタートしました。
スタートして初めての週末となる土曜日の21日には、多数の親子連れや子ども達がスタンプを押しています。
特に、太陽のスタンプを押す三鷹駅コンコースのスタンプ台には行列ができていました。

この日、私は三鷹ネットワーク大学で開催された「太陽系ウォーク・キックオフイベント特別講演」に参加しました。
講師は、当初からこのスタンプラリーの企画をネット大と進め、現在は実行委員長の国立天文台准教授の縣秀彦さんで、テーマは「太陽系と小惑星をめぐる旅アラカルト」でした。

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講演をする縣先生

講演では、縣さんが現在世界天文学連合の天文学普及のお仕事をしていることから、『太陽系ウォークは現時点で、世界の中で最も地域に根付き多数の市民が参加する継続的な天文学普及の取り組みである』と話されました。
そして、今年のスタンプラリーでは「小惑星」に注目するということ、特に小惑星リュウグウに接地して表面サンプルの採取に成功した小惑星探査機のはやぶさ2のお話もされました。
はやぶさ2は来年の11月には帰還する予定とのことで、採取されたものの分析によっては、生命体の可能性もあるとのことで楽しみです。

これから10月27日まで1カ月余りの開催期間には、多くの参加者が太陽系ウォークを通して、宇宙の広さを実感されることでしょう。

さらに、世界天文年の2009年7月7日、国立天文台第1号官舎を復元して生まれたのが「三鷹市星と森と絵本の家」です。
国立天文台の敷地内にあるにも関わらず、三鷹市の管理運営する施設として、多くのボランティアの皆様と運営できていることは、本当に稀有な事例だと思います。

開館日の7月7日の七夕の日に、開館当時の観山台長は宇宙の話を、私は宇宙に関する絵本の読み聞かせをしましたが、それ以降の歴代台長と私は開館記念日に、台長は企画展のテーマと合わせた宇宙のお話を、私はテーマに沿った絵本の読み聞かせをするという恒例を、私の市長在任中は重ねてきました。
こうしたことも、協働の一つの表れと思います。

そして、開館10周年を迎える2019年3月には当時の三鷹市長として35万人目の来館者を迎えました。

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星と森と絵本の家での開館記念日の絵本の読み聞かせ(林正彦前台長と)

子どもたちに天体望遠鏡を届ける会会長としての海部先生

海部先生は2012年8月から2015年までIAU(世界天文学連合)の会長をつとめられました。
IAU会長を務めるのはアジアで3人目、日本では古在由秀先生に次いで2人目です。

海部台長、観山台長、林台長、常田台長、歴代の台長が「国立天文台のあるまち三鷹」をさまざまなアプローチで活性化されてきました。
海部先生が2008年に設立された「子どもたちに天体望遠鏡を届ける会」は、土星の環や金星の満ち欠けが観察可能な組み立て式簡易天体望遠鏡キットをつくり、全国の子どもたちに届けたいという思いから、活動を進められています。
その最終目標は「一家に1台、天体望遠鏡」です。
ガリレオが宇宙を初めて観察したものと同程度の小型望遠鏡を安価に製作して、国立天文台本部のある三鷹市はもちろん、日本全国の子どもたちに配布し、かつてガリレオが体験した驚きや発見の追体験を促すことが目的です。

「子どもたちに天体望遠鏡を届ける会」の皆様は、開発と検証を繰り返し、誰でもが入手可能な価格でその性能を実現しうる望遠鏡が完成しました。
そこで、一人でも多くの子どもたちにそれを届けるための第一歩として、まずは国立天文台の地元の三鷹市の小中学校に約50台の天体望遠鏡を届けるというプロジェクトに取り組まれました。

三鷹市内の一部の小学校では、任意団体の協力を得てPTAを中心に10年以上もアストロクラブの活動が運営されています。
天体観望会が開かれるなど、三鷹市は「天文台があるまち」として、暮らしの中で天文学を楽しむまちに向け、市民の皆様がいろいろな活動を行っています。

そんな時に、三鷹市の小中学校への50台の天体望遠鏡の配布が構想されたことは、本当にありがたいことです。
子どもたちが宇宙への扉を開き、身近に位置付けて、天文学を含む自然科学への興味をもつきっかけを望遠鏡がうみだすように思います。

天体は「光年」が単位であるように、本当に遠い距離にあり、虫や植物のように手にとって調べることはできません。
しかも、都市においては、肉眼で見上げているだけでは月の満ち欠けがようやくわかるだけです。

今からおよそ400年前、ガリレオが天体望遠鏡という道具を通して、月の表面の姿や木星のまわりを回る小さな四つの星などを発見することで、天体は身近になってきたのです。
このガリレオの感動を追体験することを、天文学者は「ガリレオ体験」と呼んでいます。

海部先生は、特に子どもたちが自らの手で苦労して望遠鏡を組み立て、自らが工夫して天体を観察して、肉眼では見えなかった宇宙を見つける喜びの体験を子どもたちに得てほしいと願われたのです。
それは、私が初めて海部先生と出会った時に、国立天文台を自然科学公園のようなものにしたいとおっしゃったお気持ちと重なります。

子どもたちが、国立天文台に来られないとしても、それぞれの場所で天体望遠鏡を道具にして、自然や宇宙に興味を持つならば、それは知的好奇心と自然への敬意と思いやりをもつ上で大きな契機になるのではないでしょうか。

夜は子どもたちにとっては学校の授業がない時間帯ですが、望遠鏡で天体を見るには夜の時間帯に天体望遠鏡を操作する必要があります。
そこで、学校で使い方を学んで、家で家族と一緒に子どもたちが自分で操作できる天体望遠鏡が必要と言えます。

国立天文台の職員有志らが、2019年にクラウドファンディングで寄付を募ったところ、一定の金額が集まり、三鷹市内の小中学校に数十個が寄贈され、授業で使用されるとともに検証がなされるとのことです。

この事例のように、海部先生は、いつも子どもたちを、未来を見つめていらっしゃいました。

結びに

私にとっては海部先生は、2018年5月13日に開かれた国立天文台初代台長であり三鷹市名誉市民でいらした古在由秀先生を送る会でお目にかかってお話をしたのが最後になりました。
海部先生の天文学における偉大なるご業績が継承され発展していくとともに、天文学を広くあまねく普及したいとの想いが、国立天文台、世界天文学連合等で着実に継承されていかれることを心から願っています。

海部先生は天文学の査読付き論文を多く発表されただけではなく、2011年毎日書評賞を受賞された『世界を知る101冊-科学から何が見えるか-』(岩波書店・2011年)をはじめ『77冊から読む科学と不確実な社会』(岩波書店・2019年)など、読書家であり、天文学の分野にこだわらない幅広い博識をお持ちでした。
だからこそ、在りし日の先生のユーモアと機知に富んだお話が心に刻まれています。

どうぞ、天国でも海部先生らしくお過ごしになられますようにお祈りいたします。
そして、ご遺族様はじめ、私たちを見守っていただければ幸いです。

あの山本有三にもあった修業時代~「三鷹市山本有三記念館企画展:翻訳ものの世界」から考える~

  • 2019/09/13 20:29

山本有三記念館と私

作家であり戯曲家であり参議院議員をつとめた山本有三(明治20:1887-昭和49:1974)は、1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで、母、妻と4人の子どもと三鷹市の下連雀の洋館で暮らし、代表作の小説『路傍の石』戯曲『米百俵』などの執筆をしました。
私は、小学生時代の1960年代には『路傍の石』の映画を学校の映画会で観て、それを契機に小説を読み、主人公の吾一の生活を追体験し、共感しながら育ちました。

大学院生であった1970年代には、三鷹市で家庭文庫・地域文庫活動をしている母親たちと学習活動の関係に注目して調査研究をする際に、1956年に有三が東京都に寄贈し、当時は東京都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」であった現在の山本有三記念館を訪問し、文庫活動のボランティアをされている女性たちにインタビューをさせていただきました。
その後1985年に建物が三鷹市に移管された後もこの文庫活動は続き、多くの子どもたちが本とふれ合う機会を提供しました。

2003年4月に第6代三鷹市長に就任してからの私は、指定管理者である公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団(前公益財団法人三鷹市芸術文化振興財団)が毎年、半年ごとに2回ずつ新たに企画し開催する企画展を訪問してきました。

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記念館の玄関から庭園を臨む

さて、作家・山本有三が1936年から1946年まで住まい、多くの作品を生み出した同記念館は、1994(平成6)年には三鷹市の重要指定有形文化財に指定されているように、レンガ造りの美しい外観、煙突や暖炉、ステンドグラスをあしらった階段などが特徴的な、いわゆる「大正ロマン」を今に伝える本格的な洋風建築です。
しかしながら、同記念館は大正末期の建造物であり、築後90年を超え、外壁が剥がれ落ちるなどの老朽化が進んでいました。
私はこの建物の維持管理と運営に責任を果たすべき当時の三鷹市長として、市議会に提案し、ご承認いただいて実施することにしたのが、2017年6月から2018年3月までの改修工事でした。

この工事は、鉄筋コンクリート耐震補強壁による構造補強や煙突・雨どいの補修、外壁の塗り替えなどの大規模な保存・改修工事でした。
この工事については、いわゆるクラウドファンディングを初めて実施し、市内外の多くの皆様から500万円を超えるご寄付が寄せられました。

そして、2018年3月31日のリニューアルオープンの際に、山本有三のご遺族様をはじめ、改修工事にご寄付をいただいた皆様にもご出席いただいて、テープカットをしたことは、この洋館に新たな息吹が吹き込まれたことであり、大変に感慨深いものでした。

山本有三にもあった挫折

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企画展:翻訳ものの世界

2019年9月7日㈯に2020年3月8日(日)までの予定で開始された最新の企画展「山本有三~翻訳ものの世界~」は、単に山本有三の翻訳の業績を紹介するものではありません。
山本有三が、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学してから開始した創作活動は、新劇運動の時代に活かされる翻訳劇に関わりつつ、劇作家としての人生を歩もうとしたものでしたが、その際に直面した「挫折」を経て、外国作家の作品を「翻訳」するという修業の時期があったことを紹介しているのです。

明治時代には、森鴎外、坪内逍遥といった名作を多く生み出した作家たちが、翻訳を多く手掛けていました。
維新の時代に、外国の文化を取り入れ、外国の文学に出会った文学を志す人々は、翻訳を通して小説や戯曲の主題、構成、文体などを学んだことが容易に想像できます。

東京帝国大学での大正4年の卒業論文では、ハウプトマンの『織匠』を取り上げた山本有三は、卒業後、新派三角同盟一座の座付き役者となったということです。
ところが、役者との関係がうまくいかなかったようで、翌年には職を辞しています。

記念館に展示されている、本人がまとめた年譜に、
「二月以降は九州地方を巡業したが、二月中旬、職をなげうって、東京に帰る。しみじみ自身の無力を感じ、精進の気にはかに高まる」
とあります。

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山本有三自身が書いた年譜の記述

同記念館の文芸企画員・学芸員の三浦穂高さんによれば、山本有三にとっての「精進」の中身は、読書と翻訳だったとのことで、特に大正5年に上梓したスウェーデンの作家ストリンドベリの『死の舞踏』の翻訳は、有三が作家としての飛躍を期して臨んだ翻訳だったとのことです。
『死の舞踏』には、精緻な心理描写や作劇術が示されており、山本有三は「死の舞踏について」という文章において、「忍従の人信仰の人クルトと意欲の人エドガルとの対立」には、ストリンドベリの「反抗的精神と忍従的精神」の交錯があると高く評価しているとのことです。

この「精進」の時期を経て、山本有三が大正9年に発表した戯曲『生命の冠』『嬰児殺し』によって、社会の人間の苦悩を描く戯曲の名手として評価を受けるようになりました。

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山本有三の修業時代の翻訳に関する展示

山本有三の経験とは「月とすっぽん」ではありますが、私は、大学院で学んでいた時、指導していただいている教授の皆様が英文の専門書の翻訳をされる際に、数冊の担当頁について、いわゆる第1次の翻訳である「下訳」を担当したことがあります。
専門書の翻訳は、文学よりも表現を凝る必要もなく、機能的に行えるもののはずですが、実は、毎回その原稿が真っ赤に修正されて戻ってきて、私なりに修業とはこういうことだと、下訳のお役に立っていない不甲斐なさを痛感したものです。

翻訳だけでなく、指導教授のゼミナールで同期生と日本語の文献講読をする際には、まずは文献の重要と思われるを箇所を書き写して、その論理構成や重要概念の意義を確認しました。
文学でいえば、外国の文献を翻訳することや、先人のすぐれた作品を書き写して文体などを体にしみこませることに類似していることをしたのかもしれません。

翻訳と言えば、根拠のほとんどない伝説的な逸話として、あの夏目漱石が英語教師の時、学生が「I love You」を「我汝を愛す」と訳したところ、「そのような言葉は日本にはなじまない。月がきれいですね、とでも訳した方がいい」と言ったという話があります。
同様に、二葉亭四迷は、「I love You」を「死んでもいい」と訳したとの話もあります。

山本有三の場合は、ドイツの詩人フライシュレンの詩を翻訳した際に、直訳すれば、「心に太陽を持て/そうすれば、なにごともよくなる」となるところを、「心に太陽を持て/そうすりゃ何だってふっ飛んでしまふ」と訳しており、企画展ではそれに関連する展示もあります。

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山本有三の自筆の「心に太陽を持て」

『三鷹市山本有三記念館館報』第19号(2019年9月)には、山形大学名誉教授の早川正信先生が「山本有三の外国文学の受容‐その「年譜」をたどりつつ‐」という文章が寄稿されています。
早川先生によれば、山本有三は東京大学の前身である第一高等学校文科に入学し、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと同期となったそうです。そして、立ち上げた第三次『新思潮』の編輯後記には、「芥川のシング、菊池のグレゴリー、山本のストリンドべリィ」などの記述があるとのことです。
そして、座付き作家を辞してから約3年間の雌伏期があるが、その時期のはじめにストリンドベリの『死の舞踏』を翻訳した際に、主人公の一人の生き方から「あきらめ」は希望の欠けた絶望ではなく、希望を前途に見る向日的なものとして捉えるようになったのではないかと考察されています。

さらに、早川先生は、山本有三がオーストリアのシュニッツラーの『盲目のジェロニモとその兄』という作品を翻訳したことが与えた影響についても言及されています。
すなわち、この翻訳を通して、兄と弟、不可視と可視、光と闇、永遠と瞬間、柔または剛といった二律背反的現象に関心をもったとのことです。

日本では、善と悪、静と動といった二律背反的な思考をするよりも、定義や境界を画然としない「曖昧」をよしとする文化があるようです。
したがって、ヨーロッパ文学の翻訳を通して、山本有三の文学の地平が開かれたことが推測されます。

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翻訳された山本有三の作品

そして、山本有三の多くの作品が翻訳されていることをわかる展示もあります。その作品の多さを目の当たりにして、翻訳ものの世界においては、外国の作家たちが山本有三の作品を翻訳して、どのような影響を受けたのかを知りたいと思いました。

山本有三記念館が愛される理由

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記念館の南側で

2018年3月31日にこの記念館がリニューアルオープンした際には、花壇の花が咲く中でウグイスがお祝いするかのように見事に「ホーホケキョ」と啼いてくれました。
夏には、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシが鳴くことに加えて、四季を通じてトンボやチョウチョが飛び交い、小鳥たちが歌います。
秋には、庭園の木々が紅葉し、冬には常緑樹が生命力を示してくれます。
このように、大正時代の建物の魅力を引き出す庭園の動植物との出会いは記念館の魅力の一つです。

というのも、記念館の庭園は一般社団法人三鷹シルバー人材センターの植木班の皆様が樹木や花の管理をしていただいているからです。
そこで、2008年9月の敬老の日の行事として、上皇陛下・上皇后陛下が、天皇陛下・皇后陛下時代に同センターを行幸啓されました際に、同センターの会員の活動の現場の一つとして記念館を来訪され、会員を激励されました。

また、山本有三が戦時中に子どもたちに豊かな読書環境を提供したいと始めた「少国民文庫」を契機に、子ども文庫の取り組みを経て、現在も子どもと読書に関する事業が実施されています。

たとえば、9月14日(土)14時から、未就学児と小2までの児童を対象にした「おはなし会」が開かれます。
また、9月15日(日)に、BS朝日の『百年名家』という1時間番組で、俳優の八嶋智人さんのご案内で記念館が紹介されるとのことです。タイトルは「洋館が誘う おとぎの世界~文豪・山本有三が暮らした三鷹の家〜」です。

みたか都市観光協会みたかフィルムコミッションの情報によれば、演歌歌手の坂本冬美さんが2020年のカレンダーの撮影を、この夏に記念館でされたとのことです。
着物やドレスをまとった坂本さんが、記念館の玄関や階段を含む館内で、大正時代の洋館の魅力を生かした撮影を行われたようです。

そして、10月1日から12月8日までの間は「第6回三鷹市山本有三記念館スケッチコンテスト」の応募期間です。
これは、記念館で写生している方が多いことから職員が提案して実現したコンテストであり、スケッチの実践が先行していたものです。
文字通り老若男女の多世代の皆様が描いたそれぞれの記念館の絵が展示される時、私たちは記念館が愛される理由を、文学ではなくスケッチという美術を通して理解することができます。

山本有三が家族と共に住まい、多くの作品を、修業の時代を経て生み出していった三鷹の洋館は、文字通り、山本有三という一人の人間が生きたことを、時代を超えて記念する館なのだと思います。
文学を愛する人、建築に興味を持つ人、自然や四季の美しさに関心を持つ人、三鷹市に関心のある人、どうぞ、三鷹市山本有三記念館を訪ねてください。
きっと、お一人おひとりに、それぞれの発見があると思います。

三鷹市山本有三記念館
http://mitaka-sportsandculture.or.jp/yuzo/

日常生活の快適さと健康に不可欠なトイレは「文化」

  • 2019/08/12 21:16

 私は、慶應義塾大学大学院博士課程で学んでいた時に、教員を志すようになりました。
大学教員になるためには教職課程を履修して教員免許を取得する必要はありませんが、将来大学教員になれるにしてもなれないにしても、教員を志す以上、教職課程を履修して、中学校及び高等学校の社会科の教員免許を取得しようと決意して、学部の3・4年時に開講されている教職課程を履修しました。

その過程で履修した教科に【人文地理学】があります。
担当教員はユーモアあふれる授業で学生に大人気の西岡秀雄教授でした。
西岡先生は、ある授業の日には、世界各国のトイレットペーパーをたくさん持参され、それを示しながら『トイレとは国や民族や時代によって異なる、まさに人間の暮らしに係わる極めて文化的なものである』ということについて力説されました。

教授は1980年に東京都功労者に認定され、そのご著書には『トイレットペーパーの文化誌 人糞地理学入門』論創社 文化誌講座 1988年、というユニークなタイトルの本があります。
私には、学生時代に人文地理学の視点でトイレについて学んだことが、その後大学教員となった時には学生担当として、トイレの清潔と防犯について取り組んだ契機となっています。

私は平成15(2003)年に市長に就任以降も、トイレには一貫して注目して取り組んできました。
たとえば、市役所本庁舎にオストメイトの方もご利用いただける「誰でもトイレ」を就任直後に整備しました。

また、コミュニティ・センターや地区公会堂及び公園などの公共施設の改修を進める過程で、特に公共施設のトイレの洋式化を進めました。
そして、公園のトイレについては、防犯のために通りから見える場所に移し、だれでもトイレとして整備するように努めました。

さらに注力したのは、学校のトイレの洋式化です。
たとえば、最近では、平成30(2018)年10月10日に、「全国公立学校施設整備期成会」の市町村長の一人として、学校施設の耐震化、施設整備の予算措置に関する要望書を柴山文部科学大臣及び菅官房長官を訪問して提出しました。 

柴山大臣は大臣にご就任直後でしたが、大臣室で私たちを迎えてくださいました。
そして私たちとテーブルに着席して時間をとって要望を聞いてくださいました。

昨年は大阪北部地震のブロック塀の倒壊で尊い児童の命が失われた事件もありブロック塀の改修は重要な施策となっていました。
また、最近の猛暑への対応としてエアコン整備の補助金増額がメインの要望となっていました。

これらはもちろん重要な政策課題ですが、私は、同様に学校トイレの洋式化が重要施策と認識していました。

そこで、
「柴山大臣、学校施設の整備においてトイレの洋式化も必須の課題です。幼児が小学校に入学した時に、学校トイレが自宅とは異なる和式トイレであることで、学校生活への適応に支障がもたらされることもあります。ある場合には不登校の要因になるかもしれません。たかがトイレ、されどトイレで、トイレは心身の健康の基盤です。ぜひ、トイレの改修の予算増額もお願いします」
と、このような趣旨の発言をしました。

大臣は、
「優先順位としては学校耐震化やエアコン整備が高いと言えますが、トイレのことも念頭におきます」
とおっしゃってくださいました。
今振り返りますと、大臣室でトイレの話をした珍しい市長だったかもしれません。

柴山文部科学大臣への要望
柴山文部科学大臣への要望
柴山文部科学大臣への要望
柴山文部科学大臣への要望

その後も、文部科学省の施設助成課には折々に陳情に訪問して、当初は学校エアコン整備補助金の要望、最近では学校トイレ洋式化補助金の要望を継続しました。
そして、平成30年度の学校施設整備の補正予算は幸いにも従来以上に増額され、三鷹市では学校トイレ改修に活用する補正予算を提案することができました。

さて、7月20日21日に開催された【三鷹産業プラザまるごと夏まつり2019】の会場である三鷹産業プラザの7階を訪ねた時に、産業プラザを運営する株式会社まちづくり三鷹の社員から案内されたのが、リニューアルされたばかりのトイレでした。

私は三鷹市長在任中に、当時の副市長であり、株式会社まちづくり三鷹の代表取締役会長であった内田治さんに、三鷹市が最大の株主であったこともあり、市民を代表してトイレの件について問題提起をしたことがありました。
すなわち、私は、
「産業プラザのトイレの設備が老朽化しています。会長は男性なので入ることがないからわからないと思うけれど、特に女子トイレのドアのカギの具合がよくないところがあり、洗面所も水道の使い勝手が悪いので点検して改善を検討してほしい」
と申したのです。
そんなこともきっかけの一つになったのか、社内では計画的なトイレ改善が始まり、まずは多数の団体の皆様にご利用いただいている利用頻度が高い会議室のある7階のトイレの改修に着手され、その完成を担当者が私に伝えていただいたと拝察します。

トイレ改修担当の社員に案内していただくと、7階の女子トイレは全ての個室に着替えコーナーがあり、ベビーベッドが一台、ベビーチェアが二台と、子育て世代の利用の際に便利になっています。

加えて、パウダールームには衣服やバッグ等を掛けるフックもあり、大きな鏡でお化粧直しにも使いやすい造りとなっています。

女子トイレのパウダーブースにはカバン等を掛けるフックが整備されている
女子トイレのパウダーブースにはカバン等を掛けるフックが整備されている
大きなミラーと清潔な洗面台
大きなミラーと清潔な洗面台
3つの個室にはどれも着替えコーナーとベビーチェアが設置
3つの個室にはどれも着替えコーナーとベビーチェアが設置
一番大きな個室にはベビーベッドも
一番大きな個室にはベビーベッドも

普段は決して入ることができない男子トイレについても、社員の方が案内しますからぜひと言っていただいて、特別に見せていただきました。
すると、女子トイレだけでなく男子トイレにもベビーベッド・ベビーチェア・着替えコーナーが設置されています。

実は、市長在任中に子育て中のお父さんと対話することも多かった私は、父親が一人で子ども連れの時に男子トイレはおむつの交換場所もなくて不自由であるとの声を聞いていました。
そこで、男子トイレに赤ちゃんのおむつ替えのスペースがあることは、適切なリニューアルであると評価します。

男子トイレにもベビーチェア・ベビーベッドが整備
男子トイレにもベビーチェア・ベビーベッドが整備
着替えコーナーはそれぞれの個室に

さらに、多目的トイレにはオストメイトの設備もあり、文字通り「だれでもトイレ」と言えます。

現代は男性も女性と共に子育てに取り組む時代であり、長寿化ととともに、外からは見えにくい障がいのある方も増えています。したがって、産業プラザ7階のトイレは、多世代の多様な皆様が使用する公共施設のトイレとして、適切に生まれ変わったものと感じました。

オストメイトも整備されただれでもトイレ
オストメイトも整備されただれでもトイレ

今後も、産業プラザのみならず、三鷹市内の他の公共施設でも、トイレ整備を継続して重視し、推進していただくことを願います。
たかがトイレ、されどトイレであり、トイレは心身の健康の基盤の機能を果たす、大切な人間の文化の一つと考えます。

三重県津市を訪ねて~国宝専修寺の広さ、気高さ、奥行きの深さ

  • 2019/07/30 22:28

私は、7月22日から23日にかけて、三重県津市の前葉泰幸市長のお招きをいただいて、津市役所の部長・次長を対象にした【組織経営セミナー】の講師として津市を訪問しました。

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津市役所の前で前葉市長と

22日午後1時半から4時までの研修講師の役割を終えてから、前葉市長のご紹介で、平成29(2017)年に国宝に指定された津市の一身田寺内町(いっしんでんじないちょう)にある【真宗高田派本山専修寺(しんしゅうたかだはほんざんせんじゅじ)】を視察させていただきました。

霧雨の降る夕方の遅い時間の訪問となりましたが、宗務総長の増田修誠(ますだしゅうじょう)様と庶務総務の藤谷知良(ふじたにちりょう)様が出迎えてくださり、お寺の歴史や概要について説明をいただきました。

津市は北海道の上富良野町と姉妹都市提携をされているのですが、それは、上富良野町開拓の第一歩は、明治29年富良野原野が殖民地区画として選定された後、明治30年に三重県安濃郡安東村(現在の津市納所町)出身の田中常次郎氏をはじめとする三重団体一行が草分地区へ移住したことに始まるとのことです。
また、大正15年の十勝岳噴火災害から復興を成し遂げた当時の村長が、三重県一身田村(現在の津市一身田町)出身の吉田貞次郎氏でした。
そして、上富良野町開基100年を迎えた平成9(1997)年7月30日には、相互の交流と永続的友好関係を促進することに合意し、友好都市提携が結ばれました。
この度お目にかかった宗務総長の増田修誠さんは、なんと上富良野町にある高田派寺院である専誠寺のご住職とのことで、まさに、津市とのご縁が深い方が、現在は本山の宗務総長をつとめられていることになります。

私は、大学教員であった頃、現在は早稲田大学名誉教授の北川正恭様が三重県知事をされていた際に、県の地域情報化や障がい者福祉施策について検討する組織のメンバーを務めていたことから、何度か津市を訪問したことがあります。
けれども、高田派の本山があることは不案内で承知していませんでしたので、今回が初めての訪問となりました。

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専修寺のパンフレット

第25世法主の常磐井慈祥様は、寺院のパンフレットの前書きに『知られざる大本山専修寺』と題されてお言葉を書かれています。
すなわち、専修寺はもともとは真宗の開祖の親鸞聖人が嘉禄2(1226)年に現在の栃木県真岡市高田に【高田山専修寺】として建立されたのがはじまりということでした。
しかしながら、その後戦火に見舞われるなどしたため、高田派の中興の祖と言われる真慧上人が東海北陸地方の布教活動の中心として明応元(1492)年に無量寿院を建立したのが現在の津市での専修寺の始まりとのことです。
その後火災などを経て、江戸時代の万治元(1658)年、津の藩主藤堂高次公より寄進された境内に、長い年月をかけて壮大な伽藍が整備されて現在に至っているという内容でした。

ご説明を伺ったのち、幸いにも、私はこの寺院の管理をされている庶務総務の藤谷様にご案内をいただいて寺院の内部を1時間余り、たっぷりと視察させていただきました。 

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御影堂内にて専修寺の藤谷知良庶務総務と

国宝御影堂は、国宝・重要文化財の木造建築物の中で5番目の大きさで、その外見から圧倒的な存在感を見せています。
しかも、内部を拝見すると、その広さと重厚さは言葉には容易には表すことができません。
国宝御影堂は畳で780枚分の広さであり、親鸞聖人の木像を中央の須弥壇(しゃみだん)に安置し、歴代上人の御影を敬置しているお堂です。
正面には金色の『見真』の額が飾られており、これは明治9(1876)年に親鸞聖人におくられた大師号で、明治天皇が下賜された宸筆(しんぴつ)を原本に制作されたとのことです。

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親鸞聖人に送られた大師号「見真」の額

堂内で、私は、藤谷様から貴重なお話を伺いました。
親鸞聖人の言葉で『善人なおもて往生遂ぐ、いわんや悪人をや』という言葉の意義についてです。

この言葉は【他力本願】を示す有名なことばですが、それでは【善人】とはどんな生き方をする人のことを言うのでしょうか。
また、【悪人】とはどんな人のことをいうのでしょうか。
たしかに、どう考えればよいか迷います。

藤谷様は、真宗高田派では、善人と悪人を分けるのは、いわゆる【欲の有無】であるとおっしゃいました。
現代社会の一般的な【善人】【悪人】の区別と言えば、善行をする人が善人で、罪を犯すような人が悪人とされます。
そこで、罪を犯した悪人が、善人でなくても救われるのであれば、罪を犯した方が得ではないかというような解釈をする人が少なからずいるようです。
けれども、真意はそうではないと、藤谷様は説明されます。

「人間はなかなか我欲から抜けさせない存在でありますが、それを知って自重することはできます。それでもなかなか我欲を持つ存在から抜け出せなくても、その己を知り、努める時、救うのは阿弥陀如来であり、ご先祖様ということになります。現世に生きる者は、ご先祖様が極楽浄土に迎えるように法事をするのではなく、ご先祖様こそ今を生きる私たちが我欲を捨てて善に生きられるように支えてくださっているのが法事ということになります。」

このお話を聞いて、6月末に実母を見送ったばかりの私には、亡くなった実母に今でも支えられている自身を素直に受け止めることができたように思います。

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御影堂と如来堂を結ぶ重要文化財通天橋

御影堂を出て、長い廊下を経て、通天橋を渡ると荘厳な阿弥陀如来立像を本尊として安置するもう一つの国宝如来堂に到着します。
如来堂は御影堂の半分の建物ということですが、天井が高く、外部も内部も緻密な木組みがみられ、左甚五郎作の鶴の妻飾りや軒には象・獏・龍の彫刻が守っています。
黄金の宮殿を思わせる開放感のある華麗な堂内は、極楽浄土を想像させますが、同時に、来る者に冷静な気持ちをもたらす気品があります。

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阿弥陀如来像が安置されている黄金の如来堂の内部

こうして、国宝の御影堂と如来堂の内部の荘厳さに圧倒された気持ちでいる私に、藤谷さんが、「もし、もう少しお時間があるならば、非公開の賜春館をご案内できますが、どうされますか?」と聞いてくださいました。
同行していただいた津市役所の総務部長と人事担当副参事のお二人も、今まで拝見したことがないとのことでしたので、ぜひ拝見したいとお答えしました。

賜春館は、明治13年に明治天皇が訪問され、宿泊されたお部屋ということで、貴賓接待用に建てられた60畳の大広間です。四面を庭園に囲まれた部屋に着くと、奥の床の間の書に目が行きました。
『崇徳興仁務修礼譲』と書かれた文字の横には、『明治二二年春日、陸軍大将熾仁親王篆』とあります。
この明治22年は、津市が4月1日に、全国30市と共に初めて市制施行した年です。
その年に書かれた書に巡り合えたこともご縁と受け止めました。

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賜春館の書の前で

真宗高田派本山専修寺は、2年前に国宝となり、その建物が建築物として掛け替えのない国の宝とされたことになりますが、一般に広く開放された境内では、参詣の方がゆっくりくつろぐような、門前町とはまた違う性格を持つと言われる【寺内町】の安らぎと温かさがあります。
東西約500メートル、南北約450メートルの寺内町の範囲を明確に示す環濠が唯一完全な形で残っているところも注目されます。
【一身田寺内町ほっとガイド会】のボランティアの皆様が歴史や文化財を案内してくださるとのことで、次回は、時間をかけてゆっくりと寺内町も散策したいと思いました。

短い訪問で大いに感動した私は、今後、多くの皆様に【真宗高田派本山専修寺】を訪れていただき、国宝を身近に感じていただくことを願わずにはいられません。
皆様のご注目と、津市および、【真宗高田派本山専修寺】へのご来訪をお勧めいたします。

※本記事内で使用させていただいた画像は、撮影・掲載許可を頂いているものです。

「高畑勲展~日本のアニメーションに遺したもの~」から考える、「アニメ―ションは文化である」ということ

  • 2019/07/02 21:25

2019年7月1日、翌2日から10月6日まで、東京国立近代美術館で開催される「高畑勲展~日本のアニメーションに遺したもの~」の内覧会に、主催する東京国立近代美術館、NHK、NHKプロモーションからの招待を受けて参加しました。

最寄り駅の東京メトロ東西線の竹橋駅を降りるとすぐの掲示板に、「かぐや姫の物語」「アルプスの少女ハイジ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「ホーホケキョ となりの山田くん」の作品をデザインした4枚のポスターが歓迎してくれます。

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竹橋駅の高畑勲展のポスター

高畑勲監督(1935-2018)は、1960年代から半世紀以上にわたって日本のアニメ―ション映画を制作し、監督して、それを文化へと昇華させた功労者です。
私が高畑監督と初めてお会いしたのは、東京工科大学メディア学部教授であったときに、株式会社スタジオジブリの依頼で、三鷹市立アニメ―ション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)を運営する公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団の理事をお引き受けした時に、高畑監督も理事をされていた理事会の場でした。
三鷹市長に就任後は、同財団の副理事長として、折々にお目にかかり、お話をする機会を得てきました。

逝去された前年の2017年の秋、ジブリ美術館の館長が交代されるとのことで、私の依頼で理事会のメンバーが記念写真を撮りました。
その時、高畑監督は遠慮がちに後ろの列の端の方にいらっしゃったのが印象的です。
写真を撮ったあとの帰りがけには、「清原市長さん、いろいろと忙しいと思うので、体に気を付けてくださいね」と言ってくださいました。
ところが、私の健康を気遣ってくださっていた高畑監督は、翌年の4月、ご病気で天に召されたのです。
本当に残念で、悲しいことでした。

高畑監督の優しさを思い出しながら会場に到着したところ、午後3時からの内覧会の開始を待つ参加者はロビーにあふれていて、お会いしたジブリ美術館の安西香月館長と一緒に、「小雨の降る日にも関わらず、高畑監督とご縁のある多くの参加者がいらして、エアコンが効かないくらいの熱気ですね」と話しながら、内覧会の開始を待ちました。

3時になり、最初に挨拶をされたのは独立行政法人国立美術館東京国立近代美術館の館長に就任されたばかりの加藤敬(かとうたかし)さんです。
加藤さんは、高畑さんの作品を「アクションやファンタジーとは一線を画した日常生活の丹念な描写に支えられた豊かな人間ドラマ」であるとして、「高畑さんの代表作を時代順に紹介しながら、『演出』の視点から、多数の未公開資料によりその革新性と創造性に迫るもの」であると紹介されました。

続いて、高畑勲さんの長男である高畑耕介(たかはたこうすけ)さんが挨拶をされました。
挨拶ではまず、「この企画のお話があったとき、高畑勲さんは、アニメ―ションの演出家の仕事を美術展としてひも解くことは難しいのではないかと言っていた」と言われました。
そして、「父は創り手である前に芸術愛好家であった」こと、「受け手が自発的に自由に考えるような作品作り、作品を見る人の能動性や主体性を尊重していた」こと、監督としての仕事としては「映画を見る人々が、作品の余韻や余白を感じ、学びや発見をしていくことを尊重していた」など、身近なご家族ならではのお話をされました。
最後に、「この展覧会によって、作品自体を見直し、新しい何かを発見していただくことを期待しています」と結ばれました。

会場の入口には、大きな「かぐや姫の物語」の絵が迎えてくれます。
そこでばったり会ったのが、私の東京工科大学メディア学部教授時代の同学部1期生の教え子で、当時はスタジオジブリで「かぐや姫の物語」の制作デスクをしていた吉川俊夫さんです。
久しぶりに再会して、一緒に展示を見ることにしました。

展示会場に入ってまもなく出会ったのが、高畑監督の奥様です。
「かぐや姫の物語」が完成後まもなく、三鷹市のコミュニティ映画祭で、この映画の上映と高畑監督のトークショーが開催されました。
その時に、監督とご一緒に来られていた奥様と私は出逢っていました。
また、2018年にはジブリ美術館での高畑監督を送る会でもお目にかかっていましたことから、今回の展示についてお祝いを申しましたところ、「生前にこの企画の話があり、本人は実現は難しいのではないかと言っていたので、今回の展示の実現をきっと喜んでいると思います」と笑顔で話されました。

次に巡り合ったのがご子息の高畑耕介さんです。
耕介さんは、吉川さんが挨拶すると、「父はかぐや姫の物語の制作のチームを大変に信頼していたので、映画が完成して解散したことが残念だったようです。
機会を作って、私がその時の皆さんとゆっくり会いたい」とおっしゃいました。
吉川さんは、そのご意向を聞いてとてもうれしそうでした。

展示の中には、高畑さんの絵コンテ、ロケハンや取材メモが多くあり、いずれも、ご遺族がご自宅で発見した貴重な資料や、関係者の皆様の提供による資料だそうです。
また、高畑監督が作品について語っている映像も、いくつかのアニメ―ション作品とともに数か所で展示され、高畑さんのお話をじっくりと聴かれる方も多くいらっしゃいました。

アニメ―ション映画の半世紀の歴史を振り返るとき、その基礎にも、潮流の中にも、高畑監督が確かに存在していることを、これらの展示資料が証明していると感じました。
展示会場は原則撮影禁止ですが、撮影が許可されている展示がありました。「アルプスの少女ハイジ」のジオラマです。精巧にできたアルプスの風景を背景に、吉川さんに写真を撮っていただきました。

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「アルプスの少女ハイジ」のジオラマとともに

さらに、「じゃりン子チエ」「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」などの、日本人の戦中・戦後の経験を問い直す内容を含む多彩な展示があり、その内容は圧巻でした。
広い会場に展示されている多様で貴重な資料を前にして、これらのすべてをしっかりと理解しながら読み解くには時間がいくらあっても足りないという想いで会場を出ると、展示会場の外には、「アルプスの少女ハイジ」の家も展示されています。
懐かしい想いでいっぱいになりました。

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アルプスの少女ハイジの家

そして、ようやく出会えたのが、今回の展示に全面的に協力された株式会社スタジオジブリの中島清文社長です。
中島社長は、「高畑さんのすごいところの一つは、関わられた作品の資料をきちんと保存されていたところです。実は、亡くなられた後に、貴重な制作関係資料がご自宅から多く発見されたのですよ。その一部が有意義に展示されています。」とおっしゃいました。
中島社長はこの記事のトップに置いた高畑勲展の看板前での写真を撮ってくださいました。

今後も、こうした貴重な資料に基づいて、アニメ―ション映画の演出や制作過程についての研究が深まるように思います。

私は、今回の「高畑勲展~日本のアニメーションに遺したもの~」は、高畑監督による作品ごとの関係資料の展示を通して、まさに、私たちの日常生活の中に「アニメ―ションは文化である」ということが定着していることを確認させてくれたように思います。
何度でも訪問したくなる展覧会でした。

シンガポールで出会った女性たち(その3)シンガポール・ポスト社の役員として活躍する多数の女性たち

  • 2019/06/25 23:31

 

2019年6月11日から14日まで、私は委員を務めている「内閣官房郵政民営化委員会」の公務出張でシンガポールを訪問しました。
出張の報告については委員会として公式にまとめます。
ここでは、岩崎さんナタリアさんに続いて、この出張で出逢った女性たちについて皆様に紹介したいと思います。

シンガポール・ポスト社の役員として活躍する多数の女性たち
Vice PresidentのEvelyn Kohさん
Vice PresidentのSandy Limさん
Senior Vice PresidentのMajorie Ooiさん

6月13日、日本での日本郵便に相当するシンガポール・ポスト社を訪ねました。
出迎えてくださった6人の役員のうち、4人は女性でした。

シンガポールは国家としては建国55年ですが、郵便事業は160年の歴史を持っています。
1989年に独立採算制をとってから、1992年の民営化を経て2003年に株式上場しています。

シンガポールは現在の人口は約550万人で、毎日の郵便物は約300万通だそうです。
とはいえ、近年は郵便物数の減少傾向を踏まえて、電子商取引(Eコマース)への対応を重視しているとともに、郵便局における金融サービスの提供を重視するようになっているとのことです。

その過程で女性の役員の活躍が顕在化し、特に民営化のプロセスで活躍したのが、シンガポール・ポスト社に1989年に就職して勤続30年の国際関係担当役員でVice PresidentであるLee Hon Chewさんです。
彼女はこの間、郵便事業中心であったシンガポール・ポスト社において、扱うビジネス領域の多様化、財政の安定、そして職員が国家公務員から民間企業社員に適切に移行する方向での人財育成に力を入れてきたそうです。

勤続30年のLee Hon Chewさんと対照的に、数年前に銀行業界から転職してきたのが、郵便局ネットワークと金融担当のSenior Vice PresidentのMajorie Ooiさんと金融担当のVice PresidentのSandy Limさんです。
彼女たちは、シンガポール有数のDBS銀行やアクサ生命保険と業務提携し、国内の約半数以上の郵便局において金融サービスの提供と販売を推進してきました。

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左からSenior Vice PresidentのMajorie Ooiさん、Vice PresidentであるLee Hon Chewさん

シンガポール・ポスト社は銀行業や保険業の免許を持たないために、サービス提供範囲に制限があるわけですが、郵便局ネットワーク担当のVice PresidentであるEvelyn Kohさんは、『郵便局は日本と同様に国内各所に設置されているため、金融サービスを提供することは利用者の利便性に貢献している』と語ります。
特に、郵便局窓口におけるキャッシュレス化を進めていて、全ての郵便局において電子マネーやクレジットカード等の利用に対応しているとともに、QRコードの決裁への対応に力を入れているとのことです。

若くて、いきいきと、はつらつとして事業の説明をされる彼女たちに、シンガポール・ポスト社の風土を質問したところ、『女性がのびのびと活躍できる社風であり、今回、女性の役員が対応した役員の過半数を超える4人であったことも決して珍しいことではない』と言われました。
ご本人たちとExective Vice Presidentの Goh Hui Lingさん(男性)に了解を得て、彼女たちの写真を紹介します。

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左からVice PresidentのEvelyn Kohさん、Vice PresidentのSandy Limさん、Senior Vice PresidentのMajorie Ooiさん、清原慶子

シンガポールは、治安が安定していて、熱帯とはいえ公衆衛生も充実しており、日本とは異なり高い山がなく地震もほとんど発生しないということから、相対的に安全度の高い国であるといわれています。
実際に訪問してみたところ、まさに、中山間地のない「都市国家」であると感じました。
今後も東南アジアにおける社会経済、学術研究、外交等の要所として一層発展していくと考えます。

それと同時に、今回のシンガポール・ポスト社の訪問で出逢った役員として活躍する相対的に若い女性たちの企業のガバナンスとビジネス改革の分野における活躍の実態から、シンガポールで進んでいる「多様性(ダイバーシティ)」の息吹を感じました。

シンガポールで出会った女性たち(その2)日本語・英語・ロシア語の通訳で活躍するロシアの「言語の達人」

  • 2019/06/23 19:46

2019年6月11日から14日まで、私は委員を務めている「内閣官房郵政民営化委員会」の公務出張でシンガポールを訪問しました。
出張の報告については委員会として公式にまとめます。
ここでは、前回の岩崎さんに続いて、この出張で出逢った女性たちについて皆様に紹介したいと思います。

日本語・英語・ロシア語の通訳で活躍するロシアの「言語の達人」
株式会社BSB通訳 代表取締役社長・代表会議通訳 ゼクリア・ナタリア(Zekria・Natalia)さん

2019年6月11日から14日まで、委員を務めている「内閣官房郵政民営化委員会」の公務出張でシンガポールを訪問した際に、日本語と英語の通訳を担当していただいたのは、ゼクリア・ナタリアさんです。
ナタリアさんは、横浜市に所在する株式会社BSB通訳の代表取締役社長・代表会議通訳です。

彼女のお母様はロシア人でお父様はアフガニスタン人とのことで、複数の文化を持つ両親に育てられたからか、大学に進学するときは、モスクワ国立言語大学の通訳学部を選ばれました。
この大学の通訳学部は、日本を含む他国の一般の学部と異なり、なんと5年制で、卒業の時には修士号が与えられるそうです。
そして通訳学部では、学生は22のロシア語以外の言語の中から必ず2つの言語を選ぶことを求められるそうで、彼女は、日本語・英語・ロシア語の3か国語を選んだそうです。

ところが、日本語は大変に人気があり、日本語専攻の定員はその時は5人だけでした。まさに大きな困難があったそうです。
しかも、彼女にはそれまで、日本語と縁があるような出来事や日本人との出逢いがあったわけではないそうですが、通訳をするなら日本語を中心にしたいと強く思っていたので、熱心に日本語専攻の選考に臨んで、その年度は6人の定員となり、彼女は日本語専攻の一人として選ばれたそうです。

大学3年生の時の1992年から1993年までの1年間広島大学教育学部に留学されて、西条キャンパスで、日本語だけでなく、日本人の生活・文化・経済・地域・自然等との実際を経験し、体感して、ますます日本が好きになったとのことです。
その後、11年間に亘って独立行政法人国際協力機構(JICA)東京本部の専属通訳として日本国政府の国際協力案件に従事し、2012年にシンガポールで通訳の会社を開業され、政府・自治体及び多くの日本企業の500以上の案件を担当し、通訳されてきました。

ナタリアさんはロシア人の配偶者の仕事の関係で、2017年3月からは通訳の事業の本拠を日本に移したそうです。
現在6歳と10歳のお子さんはインターナショナル・スクールに通学されているとのことです。
日本に本拠を移されたので、今回のシンガポールでの通訳の仕事をなさるために、わざわざ日本から来ていただくことになりました。
お子さんは配偶者がみてくださっているということで、優れた通訳者であり、母親でもあるナタリアさんの活躍を実現する、配偶者の理解と支える力を感じます。

さて、ナタリアさんの通訳としての仕事ぶりですが、視察相手や郵政民営化委員会委員から繰り出される専門用語が満載の説明や質疑応答について、明瞭に、しかも極力簡潔に通訳する実力は、本当に確かなものと感じました。
しかも、長らく日本の各省庁に指名され、シンガポール政府との多くの国際会議や政府間交渉の通訳をされてこられた経験をお持ちであることから、シンガポールの実情に沿った説明力によって、私たちの理解も高まりました。

特に、初めてのシンガポール訪問となる私にとっては、視察に同行していただいた在シンガポール日本大使館の一等書記官による丁寧な説明に加えて、生活経験のある彼女によるシンガポール政府や経済界の動向についての補足的説明が役に立ちました。
通訳としてだけでなく、長くシンガポールに住んでいた経験からの生活者としての情報も役立ったのです。

彼女は通訳の専門家として私たち視察団の視察の主旨や問題意識を最大限に尊重していただく謙虚さを保ちつつ、見事な通訳技術を発揮され、滑らかなコミュニケーション能力を活かす颯爽とした姿は、女性活躍を体現される一人の専門家として、実に麗しく、頼もしいものでした。

今では陳腐な表現となっていますが、いわゆる「キャリア・ウーマン」として、日本語・英語・ロシア語の通訳の技術を活かす「言語の達人」として、医療、M&A、保険事業、交通等の幅広い分野で、複数の国家間の学術交流、国際交流や経済交渉に貢献するナタリアさんの活躍が、これからも続くことを確信しています。

シンガポールで出会った女性たち(その1)物流業界での女性活躍の星

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  • 2019/06/21 22:44

2019年6月11日から14日まで、私は委員を務めている「内閣官房郵政民営化委員会」の公務出張でシンガポールを訪問しました。
出張の報告については委員会として公式にまとめます。
ここでは、この出張で出逢った女性たちについて、皆様に紹介したいと思います。

物流業界での女性活躍の星
Toll Group グループセールス&マーケティング 日系営業統括 岩崎久美さん

シンガポールでの視察先の一つは、航空機を主体とした国際宅配便、港湾も活用した運輸、ロジスティックスサービスを扱うオーストラリアの国際輸送物流会社Toll社が、シンガポールで2017年に竣工したToll Cityという拠点と、40年以上歴史的に有意義な拠点となっているTOPSという臨海部の物流拠点でした。

Toll社は2015年5月に日本郵便株式会社によって買収され同社の子会社となった会社であり、アジア太平洋地域を中心に、50カ国1200拠点のネットワークを運営している国際的物流を担う企業です。
さて、その視察先で出会ったのが、Toll Groupのグループセールス&マーケティング部門で日系営業統括をされている岩﨑久美さんでした。

岩崎さんは、2019年の春に日系大手物流企業からToll Group に移籍され、シンガポールに駐在されています。
前職での約30年間の在職中には、国際物流を担当されオーストラリアに駐在されたこともある、男性が多い物流の世界でその名前を知られた女性の活躍を代表する方でした。

たとえば彼女は、2011年、日本の企業が国内で製造した初の商用人工衛星を、世界最大のロシアの巨大輸送機アントノフ(愛称:ルスラーン)のチャーター機に載せて、名古屋セントレア国際空港から仏領ギアナまで輸送するプロジェクトにおいて活躍されました。
当時、各国の法令調査やチャーター機の手配から始まり、運搬業務全般を担い目的地まで送り届ける担当者が、岩崎さんだったのです。

大型の人工衛星を大型の貨物機で輸送するプロジェクトを、小柄で華奢な女性が担当することで注目されましたが、繊細な電子機器であるにもかかわらず、5トンから10トンの重さの人工衛星と、打ち上げ関係物資を合計すると約50トンとの重量の物資の飛行機による輸送だったのです。
それらをクレーンで慎重に積み込む仕事は数時間に及び、その責任者として総合的なチェックをするとともに、自らその大型の貨物機に乗り込んで無事成功させたのが岩崎さんでした。

その岩崎さんを、これまでの経験を基礎にしつつ、シンガポールToll社発の、東南アジアでの物流マーケティングの仕事に駆り立てたのは、優れた日本製品を国際的に流通させたいという想いと、東南アジアの優れた製品を日本に安全に輸送したいとの想いであったと感じました。
仕事において、男性とか女性とかの区別はないと言われますが、彼女は、この30年間、男性が主導し女性活躍が少ない日本の物流の世界で、岩崎さんならではの繊細さと綿密な仕事ぶりで、国際的な信用を獲得してきました。

現在、シンガポールでは、医薬品やワイン等の保管と適切な物流を通して、信用を確保してきているということです。
日用品から人工衛星まで、私たちの安全で安心できる生活を支える基盤が物流ですから、さりげなく、なにげなく、しなやかなたたずまいの岩崎さんが発揮する、物流業界でのグループセールス&マーケティングでの女性活躍の発揮を期待したいと思います。

三鷹ネットワーク大学の設立の経過と今回の出版の意義

  • 2019/06/13 19:48

2003年4月30日に三鷹市長に就任した私は、マニフェストに示していた「三鷹ネットワーク大学・大学院(仮称)」の設立の可能性を検討する組織として、2002年に発足していた「あすのまち・三鷹」推進協議会(平成18年3月事業終了)のプロジェクトの中に、「三鷹ネットワーク大学・大学院(仮称)検討委員会」を設置しました。

そもそも、私がなぜ「三鷹ネットワーク大学・大学院(仮称)」を構想したかと申しますと、私自身が市長に就任する前に、常磐大学人間科学部、ルーテル学院大学文学部、東京工科大学メディア学部という3つの大学で教員として働いた経験から、大学と自治体の協働の重要性を強く認識していたからです。
自治体は、少子長寿化、国際化、情報化、都市化といった社会の激動に伴う諸課題に対応するために、大学研究機関の叡智が必要であるし、大学としても、大学の学問に基づく社会貢献を実現し、大学生や大学教員の研究調査のフィールドを確保するためにも、自治体との連携が重要性を増していると考えていたのです。

そこで、検討する組織の委員長には、すでに三鷹市と地域の諸課題の解決に向けた調査研究をされたご経験があるとともに、当時の法政大学総長として、大学の教学と経営の両方に責任を取る役割をされていた清成忠男先生に依頼しました。
委員会には、市内のアジア・アフリカ文化財団、杏林大学、国際基督教大学、国立天文台、ルーテル学院大学に加えて、市外の電気通信大学、東京工科大学、東京農工大学、日本女子体育大学、法政大学が参加してくださいました。

そして、2004年4月に、検討委員会より、三鷹市に対して「ネットワーク大学」設置に向けた提言書が提出されました。
それを受けて、6月に三鷹ネットワーク大学(仮称)開設協議会(会長:清成忠男法政大学総長=当時)を設置し、2005年3月に、第3回開設協議会で14の教育・研究機関と三鷹市が基本協定を締結したのです。 

さらに、5月に、アジア・アフリカ文化財団、亜細亜大学、杏林大学、国際基督教大学、国立天文台、電気通信大学、東京工科大学、東京農工大学、日商簿記三鷹福祉専門学校、日本女子体育大学、法政大学、明治大学、立教大学、ルーテル学院大学、三鷹市を正会員とする、特定非営利活動法人(NPO法人)「三鷹ネットワーク大学推進機構」(理事長:清成忠男法政大学総長=当時)の認証を東京都へ申請しました。

8月には、東京都よりNPO法人認証書を交付され、法人登記を完了し、9月の市議会定例会でNPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構が公の施設「三鷹ネットワーク大学(以下ネット大)」の指定管理者に指定(平成17年10月~27年9月)されました。

その後、ネット大は、「民(市民)」「学(大学研究機関)」「産(産業界)」「公(市役所等の公共機関)」「官(国の機関)」がつながり、それぞれが持つ知的資源を最大限に活かして協働し、三鷹市から全国に向けて、そして、未来に向けて、地域課題の解決を含む「まちづくりの新しい扉」を開く「大学研究機関との協働の新しいカタチ」を示してきました。

創立10周年記念事業を契機として生まれた『人生100年時代の地域ケアシステム~三鷹市の地域ケア実践の検証を通して~』の本の執筆者は19名、協力者は40名を超えます。まさに、活動に基づいた多様な市民力と、協働の実践に裏付けられた本の出版となりました。

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