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あの山本有三にもあった修業時代~「三鷹市山本有三記念館企画展:翻訳ものの世界」から考える~

  • 2019/09/13 20:29

山本有三記念館と私

作家であり戯曲家であり参議院議員をつとめた山本有三(明治20:1887-昭和49:1974)は、1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで、母、妻と4人の子どもと三鷹市の下連雀の洋館で暮らし、代表作の小説『路傍の石』戯曲『米百俵』などの執筆をしました。
私は、小学生時代の1960年代には『路傍の石』の映画を学校の映画会で観て、それを契機に小説を読み、主人公の吾一の生活を追体験し、共感しながら育ちました。

大学院生であった1970年代には、三鷹市で家庭文庫・地域文庫活動をしている母親たちと学習活動の関係に注目して調査研究をする際に、1956年に有三が東京都に寄贈し、当時は東京都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」であった現在の山本有三記念館を訪問し、文庫活動のボランティアをされている女性たちにインタビューをさせていただきました。
その後1985年に建物が三鷹市に移管された後もこの文庫活動は続き、多くの子どもたちが本とふれ合う機会を提供しました。

2003年4月に第6代三鷹市長に就任してからの私は、指定管理者である公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団(前公益財団法人三鷹市芸術文化振興財団)が毎年、半年ごとに2回ずつ新たに企画し開催する企画展を訪問してきました。

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記念館の玄関から庭園を臨む

さて、作家・山本有三が1936年から1946年まで住まい、多くの作品を生み出した同記念館は、1994(平成6)年には三鷹市の重要指定有形文化財に指定されているように、レンガ造りの美しい外観、煙突や暖炉、ステンドグラスをあしらった階段などが特徴的な、いわゆる「大正ロマン」を今に伝える本格的な洋風建築です。
しかしながら、同記念館は大正末期の建造物であり、築後90年を超え、外壁が剥がれ落ちるなどの老朽化が進んでいました。
私はこの建物の維持管理と運営に責任を果たすべき当時の三鷹市長として、市議会に提案し、ご承認いただいて実施することにしたのが、2017年6月から2018年3月までの改修工事でした。

この工事は、鉄筋コンクリート耐震補強壁による構造補強や煙突・雨どいの補修、外壁の塗り替えなどの大規模な保存・改修工事でした。
この工事については、いわゆるクラウドファンディングを初めて実施し、市内外の多くの皆様から500万円を超えるご寄付が寄せられました。

そして、2018年3月31日のリニューアルオープンの際に、山本有三のご遺族様をはじめ、改修工事にご寄付をいただいた皆様にもご出席いただいて、テープカットをしたことは、この洋館に新たな息吹が吹き込まれたことであり、大変に感慨深いものでした。

山本有三にもあった挫折

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企画展:翻訳ものの世界

2019年9月7日㈯に2020年3月8日(日)までの予定で開始された最新の企画展「山本有三~翻訳ものの世界~」は、単に山本有三の翻訳の業績を紹介するものではありません。
山本有三が、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学してから開始した創作活動は、新劇運動の時代に活かされる翻訳劇に関わりつつ、劇作家としての人生を歩もうとしたものでしたが、その際に直面した「挫折」を経て、外国作家の作品を「翻訳」するという修業の時期があったことを紹介しているのです。

明治時代には、森鴎外、坪内逍遥といった名作を多く生み出した作家たちが、翻訳を多く手掛けていました。
維新の時代に、外国の文化を取り入れ、外国の文学に出会った文学を志す人々は、翻訳を通して小説や戯曲の主題、構成、文体などを学んだことが容易に想像できます。

東京帝国大学での大正4年の卒業論文では、ハウプトマンの『織匠』を取り上げた山本有三は、卒業後、新派三角同盟一座の座付き役者となったということです。
ところが、役者との関係がうまくいかなかったようで、翌年には職を辞しています。

記念館に展示されている、本人がまとめた年譜に、
「二月以降は九州地方を巡業したが、二月中旬、職をなげうって、東京に帰る。しみじみ自身の無力を感じ、精進の気にはかに高まる」
とあります。

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山本有三自身が書いた年譜の記述

同記念館の文芸企画員・学芸員の三浦穂高さんによれば、山本有三にとっての「精進」の中身は、読書と翻訳だったとのことで、特に大正5年に上梓したスウェーデンの作家ストリンドベリの『死の舞踏』の翻訳は、有三が作家としての飛躍を期して臨んだ翻訳だったとのことです。
『死の舞踏』には、精緻な心理描写や作劇術が示されており、山本有三は「死の舞踏について」という文章において、「忍従の人信仰の人クルトと意欲の人エドガルとの対立」には、ストリンドベリの「反抗的精神と忍従的精神」の交錯があると高く評価しているとのことです。

この「精進」の時期を経て、山本有三が大正9年に発表した戯曲『生命の冠』『嬰児殺し』によって、社会の人間の苦悩を描く戯曲の名手として評価を受けるようになりました。

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山本有三の修業時代の翻訳に関する展示

山本有三の経験とは「月とすっぽん」ではありますが、私は、大学院で学んでいた時、指導していただいている教授の皆様が英文の専門書の翻訳をされる際に、数冊の担当頁について、いわゆる第1次の翻訳である「下訳」を担当したことがあります。
専門書の翻訳は、文学よりも表現を凝る必要もなく、機能的に行えるもののはずですが、実は、毎回その原稿が真っ赤に修正されて戻ってきて、私なりに修業とはこういうことだと、下訳のお役に立っていない不甲斐なさを痛感したものです。

翻訳だけでなく、指導教授のゼミナールで同期生と日本語の文献講読をする際には、まずは文献の重要と思われるを箇所を書き写して、その論理構成や重要概念の意義を確認しました。
文学でいえば、外国の文献を翻訳することや、先人のすぐれた作品を書き写して文体などを体にしみこませることに類似していることをしたのかもしれません。

翻訳と言えば、根拠のほとんどない伝説的な逸話として、あの夏目漱石が英語教師の時、学生が「I love You」を「我汝を愛す」と訳したところ、「そのような言葉は日本にはなじまない。月がきれいですね、とでも訳した方がいい」と言ったという話があります。
同様に、二葉亭四迷は、「I love You」を「死んでもいい」と訳したとの話もあります。

山本有三の場合は、ドイツの詩人フライシュレンの詩を翻訳した際に、直訳すれば、「心に太陽を持て/そうすれば、なにごともよくなる」となるところを、「心に太陽を持て/そうすりゃ何だってふっ飛んでしまふ」と訳しており、企画展ではそれに関連する展示もあります。

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山本有三の自筆の「心に太陽を持て」

『三鷹市山本有三記念館館報』第19号(2019年9月)には、山形大学名誉教授の早川正信先生が「山本有三の外国文学の受容‐その「年譜」をたどりつつ‐」という文章が寄稿されています。
早川先生によれば、山本有三は東京大学の前身である第一高等学校文科に入学し、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと同期となったそうです。そして、立ち上げた第三次『新思潮』の編輯後記には、「芥川のシング、菊池のグレゴリー、山本のストリンドべリィ」などの記述があるとのことです。
そして、座付き作家を辞してから約3年間の雌伏期があるが、その時期のはじめにストリンドベリの『死の舞踏』を翻訳した際に、主人公の一人の生き方から「あきらめ」は希望の欠けた絶望ではなく、希望を前途に見る向日的なものとして捉えるようになったのではないかと考察されています。

さらに、早川先生は、山本有三がオーストリアのシュニッツラーの『盲目のジェロニモとその兄』という作品を翻訳したことが与えた影響についても言及されています。
すなわち、この翻訳を通して、兄と弟、不可視と可視、光と闇、永遠と瞬間、柔または剛といった二律背反的現象に関心をもったとのことです。

日本では、善と悪、静と動といった二律背反的な思考をするよりも、定義や境界を画然としない「曖昧」をよしとする文化があるようです。
したがって、ヨーロッパ文学の翻訳を通して、山本有三の文学の地平が開かれたことが推測されます。

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翻訳された山本有三の作品

そして、山本有三の多くの作品が翻訳されていることをわかる展示もあります。その作品の多さを目の当たりにして、翻訳ものの世界においては、外国の作家たちが山本有三の作品を翻訳して、どのような影響を受けたのかを知りたいと思いました。

山本有三記念館が愛される理由

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記念館の南側で

2018年3月31日にこの記念館がリニューアルオープンした際には、花壇の花が咲く中でウグイスがお祝いするかのように見事に「ホーホケキョ」と啼いてくれました。
夏には、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシが鳴くことに加えて、四季を通じてトンボやチョウチョが飛び交い、小鳥たちが歌います。
秋には、庭園の木々が紅葉し、冬には常緑樹が生命力を示してくれます。
このように、大正時代の建物の魅力を引き出す庭園の動植物との出会いは記念館の魅力の一つです。

というのも、記念館の庭園は一般社団法人三鷹シルバー人材センターの植木班の皆様が樹木や花の管理をしていただいているからです。
そこで、2008年9月の敬老の日の行事として、上皇陛下・上皇后陛下が、天皇陛下・皇后陛下時代に同センターを行幸啓されました際に、同センターの会員の活動の現場の一つとして記念館を来訪され、会員を激励されました。

また、山本有三が戦時中に子どもたちに豊かな読書環境を提供したいと始めた「少国民文庫」を契機に、子ども文庫の取り組みを経て、現在も子どもと読書に関する事業が実施されています。

たとえば、9月14日(土)14時から、未就学児と小2までの児童を対象にした「おはなし会」が開かれます。
また、9月15日(日)に、BS朝日の『百年名家』という1時間番組で、俳優の八嶋智人さんのご案内で記念館が紹介されるとのことです。タイトルは「洋館が誘う おとぎの世界~文豪・山本有三が暮らした三鷹の家〜」です。

みたか都市観光協会みたかフィルムコミッションの情報によれば、演歌歌手の坂本冬美さんが2020年のカレンダーの撮影を、この夏に記念館でされたとのことです。
着物やドレスをまとった坂本さんが、記念館の玄関や階段を含む館内で、大正時代の洋館の魅力を生かした撮影を行われたようです。

そして、10月1日から12月8日までの間は「第6回三鷹市山本有三記念館スケッチコンテスト」の応募期間です。
これは、記念館で写生している方が多いことから職員が提案して実現したコンテストであり、スケッチの実践が先行していたものです。
文字通り老若男女の多世代の皆様が描いたそれぞれの記念館の絵が展示される時、私たちは記念館が愛される理由を、文学ではなくスケッチという美術を通して理解することができます。

山本有三が家族と共に住まい、多くの作品を、修業の時代を経て生み出していった三鷹の洋館は、文字通り、山本有三という一人の人間が生きたことを、時代を超えて記念する館なのだと思います。
文学を愛する人、建築に興味を持つ人、自然や四季の美しさに関心を持つ人、三鷹市に関心のある人、どうぞ、三鷹市山本有三記念館を訪ねてください。
きっと、お一人おひとりに、それぞれの発見があると思います。

三鷹市山本有三記念館
http://mitaka-sportsandculture.or.jp/yuzo/

日常生活の快適さと健康に不可欠なトイレは「文化」

  • 2019/08/12 21:16

 私は、慶應義塾大学大学院博士課程で学んでいた時に、教員を志すようになりました。
大学教員になるためには教職課程を履修して教員免許を取得する必要はありませんが、将来大学教員になれるにしてもなれないにしても、教員を志す以上、教職課程を履修して、中学校及び高等学校の社会科の教員免許を取得しようと決意して、学部の3・4年時に開講されている教職課程を履修しました。

その過程で履修した教科に【人文地理学】があります。
担当教員はユーモアあふれる授業で学生に大人気の西岡秀雄教授でした。
西岡先生は、ある授業の日には、世界各国のトイレットペーパーをたくさん持参され、それを示しながら『トイレとは国や民族や時代によって異なる、まさに人間の暮らしに係わる極めて文化的なものである』ということについて力説されました。

教授は1980年に東京都功労者に認定され、そのご著書には『トイレットペーパーの文化誌 人糞地理学入門』論創社 文化誌講座 1988年、というユニークなタイトルの本があります。
私には、学生時代に人文地理学の視点でトイレについて学んだことが、その後大学教員となった時には学生担当として、トイレの清潔と防犯について取り組んだ契機となっています。

私は平成15(2003)年に市長に就任以降も、トイレには一貫して注目して取り組んできました。
たとえば、市役所本庁舎にオストメイトの方もご利用いただける「誰でもトイレ」を就任直後に整備しました。

また、コミュニティ・センターや地区公会堂及び公園などの公共施設の改修を進める過程で、特に公共施設のトイレの洋式化を進めました。
そして、公園のトイレについては、防犯のために通りから見える場所に移し、だれでもトイレとして整備するように努めました。

さらに注力したのは、学校のトイレの洋式化です。
たとえば、最近では、平成30(2018)年10月10日に、「全国公立学校施設整備期成会」の市町村長の一人として、学校施設の耐震化、施設整備の予算措置に関する要望書を柴山文部科学大臣及び菅官房長官を訪問して提出しました。 

柴山大臣は大臣にご就任直後でしたが、大臣室で私たちを迎えてくださいました。
そして私たちとテーブルに着席して時間をとって要望を聞いてくださいました。

昨年は大阪北部地震のブロック塀の倒壊で尊い児童の命が失われた事件もありブロック塀の改修は重要な施策となっていました。
また、最近の猛暑への対応としてエアコン整備の補助金増額がメインの要望となっていました。

これらはもちろん重要な政策課題ですが、私は、同様に学校トイレの洋式化が重要施策と認識していました。

そこで、
「柴山大臣、学校施設の整備においてトイレの洋式化も必須の課題です。幼児が小学校に入学した時に、学校トイレが自宅とは異なる和式トイレであることで、学校生活への適応に支障がもたらされることもあります。ある場合には不登校の要因になるかもしれません。たかがトイレ、されどトイレで、トイレは心身の健康の基盤です。ぜひ、トイレの改修の予算増額もお願いします」
と、このような趣旨の発言をしました。

大臣は、
「優先順位としては学校耐震化やエアコン整備が高いと言えますが、トイレのことも念頭におきます」
とおっしゃってくださいました。
今振り返りますと、大臣室でトイレの話をした珍しい市長だったかもしれません。

柴山文部科学大臣への要望
柴山文部科学大臣への要望
柴山文部科学大臣への要望
柴山文部科学大臣への要望

その後も、文部科学省の施設助成課には折々に陳情に訪問して、当初は学校エアコン整備補助金の要望、最近では学校トイレ洋式化補助金の要望を継続しました。
そして、平成30年度の学校施設整備の補正予算は幸いにも従来以上に増額され、三鷹市では学校トイレ改修に活用する補正予算を提案することができました。

さて、7月20日21日に開催された【三鷹産業プラザまるごと夏まつり2019】の会場である三鷹産業プラザの7階を訪ねた時に、産業プラザを運営する株式会社まちづくり三鷹の社員から案内されたのが、リニューアルされたばかりのトイレでした。

私は三鷹市長在任中に、当時の副市長であり、株式会社まちづくり三鷹の代表取締役会長であった内田治さんに、三鷹市が最大の株主であったこともあり、市民を代表してトイレの件について問題提起をしたことがありました。
すなわち、私は、
「産業プラザのトイレの設備が老朽化しています。会長は男性なので入ることがないからわからないと思うけれど、特に女子トイレのドアのカギの具合がよくないところがあり、洗面所も水道の使い勝手が悪いので点検して改善を検討してほしい」
と申したのです。
そんなこともきっかけの一つになったのか、社内では計画的なトイレ改善が始まり、まずは多数の団体の皆様にご利用いただいている利用頻度が高い会議室のある7階のトイレの改修に着手され、その完成を担当者が私に伝えていただいたと拝察します。

トイレ改修担当の社員に案内していただくと、7階の女子トイレは全ての個室に着替えコーナーがあり、ベビーベッドが一台、ベビーチェアが二台と、子育て世代の利用の際に便利になっています。

加えて、パウダールームには衣服やバッグ等を掛けるフックもあり、大きな鏡でお化粧直しにも使いやすい造りとなっています。

女子トイレのパウダーブースにはカバン等を掛けるフックが整備されている
女子トイレのパウダーブースにはカバン等を掛けるフックが整備されている
大きなミラーと清潔な洗面台
大きなミラーと清潔な洗面台
3つの個室にはどれも着替えコーナーとベビーチェアが設置
3つの個室にはどれも着替えコーナーとベビーチェアが設置
一番大きな個室にはベビーベッドも
一番大きな個室にはベビーベッドも

普段は決して入ることができない男子トイレについても、社員の方が案内しますからぜひと言っていただいて、特別に見せていただきました。
すると、女子トイレだけでなく男子トイレにもベビーベッド・ベビーチェア・着替えコーナーが設置されています。

実は、市長在任中に子育て中のお父さんと対話することも多かった私は、父親が一人で子ども連れの時に男子トイレはおむつの交換場所もなくて不自由であるとの声を聞いていました。
そこで、男子トイレに赤ちゃんのおむつ替えのスペースがあることは、適切なリニューアルであると評価します。

男子トイレにもベビーチェア・ベビーベッドが整備
男子トイレにもベビーチェア・ベビーベッドが整備
着替えコーナーはそれぞれの個室に

さらに、多目的トイレにはオストメイトの設備もあり、文字通り「だれでもトイレ」と言えます。

現代は男性も女性と共に子育てに取り組む時代であり、長寿化ととともに、外からは見えにくい障がいのある方も増えています。したがって、産業プラザ7階のトイレは、多世代の多様な皆様が使用する公共施設のトイレとして、適切に生まれ変わったものと感じました。

オストメイトも整備されただれでもトイレ
オストメイトも整備されただれでもトイレ

今後も、産業プラザのみならず、三鷹市内の他の公共施設でも、トイレ整備を継続して重視し、推進していただくことを願います。
たかがトイレ、されどトイレであり、トイレは心身の健康の基盤の機能を果たす、大切な人間の文化の一つと考えます。

三重県津市を訪ねて~国宝専修寺の広さ、気高さ、奥行きの深さ

  • 2019/07/30 22:28

私は、7月22日から23日にかけて、三重県津市の前葉泰幸市長のお招きをいただいて、津市役所の部長・次長を対象にした【組織経営セミナー】の講師として津市を訪問しました。

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津市役所の前で前葉市長と

22日午後1時半から4時までの研修講師の役割を終えてから、前葉市長のご紹介で、平成29(2017)年に国宝に指定された津市の一身田寺内町(いっしんでんじないちょう)にある【真宗高田派本山専修寺(しんしゅうたかだはほんざんせんじゅじ)】を視察させていただきました。

霧雨の降る夕方の遅い時間の訪問となりましたが、宗務総長の増田修誠(ますだしゅうじょう)様と庶務総務の藤谷知良(ふじたにちりょう)様が出迎えてくださり、お寺の歴史や概要について説明をいただきました。

津市は北海道の上富良野町と姉妹都市提携をされているのですが、それは、上富良野町開拓の第一歩は、明治29年富良野原野が殖民地区画として選定された後、明治30年に三重県安濃郡安東村(現在の津市納所町)出身の田中常次郎氏をはじめとする三重団体一行が草分地区へ移住したことに始まるとのことです。
また、大正15年の十勝岳噴火災害から復興を成し遂げた当時の村長が、三重県一身田村(現在の津市一身田町)出身の吉田貞次郎氏でした。
そして、上富良野町開基100年を迎えた平成9(1997)年7月30日には、相互の交流と永続的友好関係を促進することに合意し、友好都市提携が結ばれました。
この度お目にかかった宗務総長の増田修誠さんは、なんと上富良野町にある高田派寺院である専誠寺のご住職とのことで、まさに、津市とのご縁が深い方が、現在は本山の宗務総長をつとめられていることになります。

私は、大学教員であった頃、現在は早稲田大学名誉教授の北川正恭様が三重県知事をされていた際に、県の地域情報化や障がい者福祉施策について検討する組織のメンバーを務めていたことから、何度か津市を訪問したことがあります。
けれども、高田派の本山があることは不案内で承知していませんでしたので、今回が初めての訪問となりました。

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専修寺のパンフレット

第25世法主の常磐井慈祥様は、寺院のパンフレットの前書きに『知られざる大本山専修寺』と題されてお言葉を書かれています。
すなわち、専修寺はもともとは真宗の開祖の親鸞聖人が嘉禄2(1226)年に現在の栃木県真岡市高田に【高田山専修寺】として建立されたのがはじまりということでした。
しかしながら、その後戦火に見舞われるなどしたため、高田派の中興の祖と言われる真慧上人が東海北陸地方の布教活動の中心として明応元(1492)年に無量寿院を建立したのが現在の津市での専修寺の始まりとのことです。
その後火災などを経て、江戸時代の万治元(1658)年、津の藩主藤堂高次公より寄進された境内に、長い年月をかけて壮大な伽藍が整備されて現在に至っているという内容でした。

ご説明を伺ったのち、幸いにも、私はこの寺院の管理をされている庶務総務の藤谷様にご案内をいただいて寺院の内部を1時間余り、たっぷりと視察させていただきました。 

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御影堂内にて専修寺の藤谷知良庶務総務と

国宝御影堂は、国宝・重要文化財の木造建築物の中で5番目の大きさで、その外見から圧倒的な存在感を見せています。
しかも、内部を拝見すると、その広さと重厚さは言葉には容易には表すことができません。
国宝御影堂は畳で780枚分の広さであり、親鸞聖人の木像を中央の須弥壇(しゃみだん)に安置し、歴代上人の御影を敬置しているお堂です。
正面には金色の『見真』の額が飾られており、これは明治9(1876)年に親鸞聖人におくられた大師号で、明治天皇が下賜された宸筆(しんぴつ)を原本に制作されたとのことです。

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親鸞聖人に送られた大師号「見真」の額

堂内で、私は、藤谷様から貴重なお話を伺いました。
親鸞聖人の言葉で『善人なおもて往生遂ぐ、いわんや悪人をや』という言葉の意義についてです。

この言葉は【他力本願】を示す有名なことばですが、それでは【善人】とはどんな生き方をする人のことを言うのでしょうか。
また、【悪人】とはどんな人のことをいうのでしょうか。
たしかに、どう考えればよいか迷います。

藤谷様は、真宗高田派では、善人と悪人を分けるのは、いわゆる【欲の有無】であるとおっしゃいました。
現代社会の一般的な【善人】【悪人】の区別と言えば、善行をする人が善人で、罪を犯すような人が悪人とされます。
そこで、罪を犯した悪人が、善人でなくても救われるのであれば、罪を犯した方が得ではないかというような解釈をする人が少なからずいるようです。
けれども、真意はそうではないと、藤谷様は説明されます。

「人間はなかなか我欲から抜けさせない存在でありますが、それを知って自重することはできます。それでもなかなか我欲を持つ存在から抜け出せなくても、その己を知り、努める時、救うのは阿弥陀如来であり、ご先祖様ということになります。現世に生きる者は、ご先祖様が極楽浄土に迎えるように法事をするのではなく、ご先祖様こそ今を生きる私たちが我欲を捨てて善に生きられるように支えてくださっているのが法事ということになります。」

このお話を聞いて、6月末に実母を見送ったばかりの私には、亡くなった実母に今でも支えられている自身を素直に受け止めることができたように思います。

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御影堂と如来堂を結ぶ重要文化財通天橋

御影堂を出て、長い廊下を経て、通天橋を渡ると荘厳な阿弥陀如来立像を本尊として安置するもう一つの国宝如来堂に到着します。
如来堂は御影堂の半分の建物ということですが、天井が高く、外部も内部も緻密な木組みがみられ、左甚五郎作の鶴の妻飾りや軒には象・獏・龍の彫刻が守っています。
黄金の宮殿を思わせる開放感のある華麗な堂内は、極楽浄土を想像させますが、同時に、来る者に冷静な気持ちをもたらす気品があります。

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阿弥陀如来像が安置されている黄金の如来堂の内部

こうして、国宝の御影堂と如来堂の内部の荘厳さに圧倒された気持ちでいる私に、藤谷さんが、「もし、もう少しお時間があるならば、非公開の賜春館をご案内できますが、どうされますか?」と聞いてくださいました。
同行していただいた津市役所の総務部長と人事担当副参事のお二人も、今まで拝見したことがないとのことでしたので、ぜひ拝見したいとお答えしました。

賜春館は、明治13年に明治天皇が訪問され、宿泊されたお部屋ということで、貴賓接待用に建てられた60畳の大広間です。四面を庭園に囲まれた部屋に着くと、奥の床の間の書に目が行きました。
『崇徳興仁務修礼譲』と書かれた文字の横には、『明治二二年春日、陸軍大将熾仁親王篆』とあります。
この明治22年は、津市が4月1日に、全国30市と共に初めて市制施行した年です。
その年に書かれた書に巡り合えたこともご縁と受け止めました。

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賜春館の書の前で

真宗高田派本山専修寺は、2年前に国宝となり、その建物が建築物として掛け替えのない国の宝とされたことになりますが、一般に広く開放された境内では、参詣の方がゆっくりくつろぐような、門前町とはまた違う性格を持つと言われる【寺内町】の安らぎと温かさがあります。
東西約500メートル、南北約450メートルの寺内町の範囲を明確に示す環濠が唯一完全な形で残っているところも注目されます。
【一身田寺内町ほっとガイド会】のボランティアの皆様が歴史や文化財を案内してくださるとのことで、次回は、時間をかけてゆっくりと寺内町も散策したいと思いました。

短い訪問で大いに感動した私は、今後、多くの皆様に【真宗高田派本山専修寺】を訪れていただき、国宝を身近に感じていただくことを願わずにはいられません。
皆様のご注目と、津市および、【真宗高田派本山専修寺】へのご来訪をお勧めいたします。

※本記事内で使用させていただいた画像は、撮影・掲載許可を頂いているものです。

「高畑勲展~日本のアニメーションに遺したもの~」から考える、「アニメ―ションは文化である」ということ

  • 2019/07/02 21:25

2019年7月1日、翌2日から10月6日まで、東京国立近代美術館で開催される「高畑勲展~日本のアニメーションに遺したもの~」の内覧会に、主催する東京国立近代美術館、NHK、NHKプロモーションからの招待を受けて参加しました。

最寄り駅の東京メトロ東西線の竹橋駅を降りるとすぐの掲示板に、「かぐや姫の物語」「アルプスの少女ハイジ」「平成狸合戦ぽんぽこ」「ホーホケキョ となりの山田くん」の作品をデザインした4枚のポスターが歓迎してくれます。

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竹橋駅の高畑勲展のポスター

高畑勲監督(1935-2018)は、1960年代から半世紀以上にわたって日本のアニメ―ション映画を制作し、監督して、それを文化へと昇華させた功労者です。
私が高畑監督と初めてお会いしたのは、東京工科大学メディア学部教授であったときに、株式会社スタジオジブリの依頼で、三鷹市立アニメ―ション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)を運営する公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団の理事をお引き受けした時に、高畑監督も理事をされていた理事会の場でした。
三鷹市長に就任後は、同財団の副理事長として、折々にお目にかかり、お話をする機会を得てきました。

逝去された前年の2017年の秋、ジブリ美術館の館長が交代されるとのことで、私の依頼で理事会のメンバーが記念写真を撮りました。
その時、高畑監督は遠慮がちに後ろの列の端の方にいらっしゃったのが印象的です。
写真を撮ったあとの帰りがけには、「清原市長さん、いろいろと忙しいと思うので、体に気を付けてくださいね」と言ってくださいました。
ところが、私の健康を気遣ってくださっていた高畑監督は、翌年の4月、ご病気で天に召されたのです。
本当に残念で、悲しいことでした。

高畑監督の優しさを思い出しながら会場に到着したところ、午後3時からの内覧会の開始を待つ参加者はロビーにあふれていて、お会いしたジブリ美術館の安西香月館長と一緒に、「小雨の降る日にも関わらず、高畑監督とご縁のある多くの参加者がいらして、エアコンが効かないくらいの熱気ですね」と話しながら、内覧会の開始を待ちました。

3時になり、最初に挨拶をされたのは独立行政法人国立美術館東京国立近代美術館の館長に就任されたばかりの加藤敬(かとうたかし)さんです。
加藤さんは、高畑さんの作品を「アクションやファンタジーとは一線を画した日常生活の丹念な描写に支えられた豊かな人間ドラマ」であるとして、「高畑さんの代表作を時代順に紹介しながら、『演出』の視点から、多数の未公開資料によりその革新性と創造性に迫るもの」であると紹介されました。

続いて、高畑勲さんの長男である高畑耕介(たかはたこうすけ)さんが挨拶をされました。
挨拶ではまず、「この企画のお話があったとき、高畑勲さんは、アニメ―ションの演出家の仕事を美術展としてひも解くことは難しいのではないかと言っていた」と言われました。
そして、「父は創り手である前に芸術愛好家であった」こと、「受け手が自発的に自由に考えるような作品作り、作品を見る人の能動性や主体性を尊重していた」こと、監督としての仕事としては「映画を見る人々が、作品の余韻や余白を感じ、学びや発見をしていくことを尊重していた」など、身近なご家族ならではのお話をされました。
最後に、「この展覧会によって、作品自体を見直し、新しい何かを発見していただくことを期待しています」と結ばれました。

会場の入口には、大きな「かぐや姫の物語」の絵が迎えてくれます。
そこでばったり会ったのが、私の東京工科大学メディア学部教授時代の同学部1期生の教え子で、当時はスタジオジブリで「かぐや姫の物語」の制作デスクをしていた吉川俊夫さんです。
久しぶりに再会して、一緒に展示を見ることにしました。

展示会場に入ってまもなく出会ったのが、高畑監督の奥様です。
「かぐや姫の物語」が完成後まもなく、三鷹市のコミュニティ映画祭で、この映画の上映と高畑監督のトークショーが開催されました。
その時に、監督とご一緒に来られていた奥様と私は出逢っていました。
また、2018年にはジブリ美術館での高畑監督を送る会でもお目にかかっていましたことから、今回の展示についてお祝いを申しましたところ、「生前にこの企画の話があり、本人は実現は難しいのではないかと言っていたので、今回の展示の実現をきっと喜んでいると思います」と笑顔で話されました。

次に巡り合ったのがご子息の高畑耕介さんです。
耕介さんは、吉川さんが挨拶すると、「父はかぐや姫の物語の制作のチームを大変に信頼していたので、映画が完成して解散したことが残念だったようです。
機会を作って、私がその時の皆さんとゆっくり会いたい」とおっしゃいました。
吉川さんは、そのご意向を聞いてとてもうれしそうでした。

展示の中には、高畑さんの絵コンテ、ロケハンや取材メモが多くあり、いずれも、ご遺族がご自宅で発見した貴重な資料や、関係者の皆様の提供による資料だそうです。
また、高畑監督が作品について語っている映像も、いくつかのアニメ―ション作品とともに数か所で展示され、高畑さんのお話をじっくりと聴かれる方も多くいらっしゃいました。

アニメ―ション映画の半世紀の歴史を振り返るとき、その基礎にも、潮流の中にも、高畑監督が確かに存在していることを、これらの展示資料が証明していると感じました。
展示会場は原則撮影禁止ですが、撮影が許可されている展示がありました。「アルプスの少女ハイジ」のジオラマです。精巧にできたアルプスの風景を背景に、吉川さんに写真を撮っていただきました。

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「アルプスの少女ハイジ」のジオラマとともに

さらに、「じゃりン子チエ」「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」などの、日本人の戦中・戦後の経験を問い直す内容を含む多彩な展示があり、その内容は圧巻でした。
広い会場に展示されている多様で貴重な資料を前にして、これらのすべてをしっかりと理解しながら読み解くには時間がいくらあっても足りないという想いで会場を出ると、展示会場の外には、「アルプスの少女ハイジ」の家も展示されています。
懐かしい想いでいっぱいになりました。

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アルプスの少女ハイジの家

そして、ようやく出会えたのが、今回の展示に全面的に協力された株式会社スタジオジブリの中島清文社長です。
中島社長は、「高畑さんのすごいところの一つは、関わられた作品の資料をきちんと保存されていたところです。実は、亡くなられた後に、貴重な制作関係資料がご自宅から多く発見されたのですよ。その一部が有意義に展示されています。」とおっしゃいました。
中島社長はこの記事のトップに置いた高畑勲展の看板前での写真を撮ってくださいました。

今後も、こうした貴重な資料に基づいて、アニメ―ション映画の演出や制作過程についての研究が深まるように思います。

私は、今回の「高畑勲展~日本のアニメーションに遺したもの~」は、高畑監督による作品ごとの関係資料の展示を通して、まさに、私たちの日常生活の中に「アニメ―ションは文化である」ということが定着していることを確認させてくれたように思います。
何度でも訪問したくなる展覧会でした。

シンガポールで出会った女性たち(その3)シンガポール・ポスト社の役員として活躍する多数の女性たち

  • 2019/06/25 23:31

 

2019年6月11日から14日まで、私は委員を務めている「内閣官房郵政民営化委員会」の公務出張でシンガポールを訪問しました。
出張の報告については委員会として公式にまとめます。
ここでは、岩崎さんナタリアさんに続いて、この出張で出逢った女性たちについて皆様に紹介したいと思います。

シンガポール・ポスト社の役員として活躍する多数の女性たち
Vice PresidentのEvelyn Kohさん
Vice PresidentのSandy Limさん
Senior Vice PresidentのMajorie Ooiさん

6月13日、日本での日本郵便に相当するシンガポール・ポスト社を訪ねました。
出迎えてくださった6人の役員のうち、4人は女性でした。

シンガポールは国家としては建国55年ですが、郵便事業は160年の歴史を持っています。
1989年に独立採算制をとってから、1992年の民営化を経て2003年に株式上場しています。

シンガポールは現在の人口は約550万人で、毎日の郵便物は約300万通だそうです。
とはいえ、近年は郵便物数の減少傾向を踏まえて、電子商取引(Eコマース)への対応を重視しているとともに、郵便局における金融サービスの提供を重視するようになっているとのことです。

その過程で女性の役員の活躍が顕在化し、特に民営化のプロセスで活躍したのが、シンガポール・ポスト社に1989年に就職して勤続30年の国際関係担当役員でVice PresidentであるLee Hon Chewさんです。
彼女はこの間、郵便事業中心であったシンガポール・ポスト社において、扱うビジネス領域の多様化、財政の安定、そして職員が国家公務員から民間企業社員に適切に移行する方向での人財育成に力を入れてきたそうです。

勤続30年のLee Hon Chewさんと対照的に、数年前に銀行業界から転職してきたのが、郵便局ネットワークと金融担当のSenior Vice PresidentのMajorie Ooiさんと金融担当のVice PresidentのSandy Limさんです。
彼女たちは、シンガポール有数のDBS銀行やアクサ生命保険と業務提携し、国内の約半数以上の郵便局において金融サービスの提供と販売を推進してきました。

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左からSenior Vice PresidentのMajorie Ooiさん、Vice PresidentであるLee Hon Chewさん

シンガポール・ポスト社は銀行業や保険業の免許を持たないために、サービス提供範囲に制限があるわけですが、郵便局ネットワーク担当のVice PresidentであるEvelyn Kohさんは、『郵便局は日本と同様に国内各所に設置されているため、金融サービスを提供することは利用者の利便性に貢献している』と語ります。
特に、郵便局窓口におけるキャッシュレス化を進めていて、全ての郵便局において電子マネーやクレジットカード等の利用に対応しているとともに、QRコードの決裁への対応に力を入れているとのことです。

若くて、いきいきと、はつらつとして事業の説明をされる彼女たちに、シンガポール・ポスト社の風土を質問したところ、『女性がのびのびと活躍できる社風であり、今回、女性の役員が対応した役員の過半数を超える4人であったことも決して珍しいことではない』と言われました。
ご本人たちとExective Vice Presidentの Goh Hui Lingさん(男性)に了解を得て、彼女たちの写真を紹介します。

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左からVice PresidentのEvelyn Kohさん、Vice PresidentのSandy Limさん、Senior Vice PresidentのMajorie Ooiさん、清原慶子

シンガポールは、治安が安定していて、熱帯とはいえ公衆衛生も充実しており、日本とは異なり高い山がなく地震もほとんど発生しないということから、相対的に安全度の高い国であるといわれています。
実際に訪問してみたところ、まさに、中山間地のない「都市国家」であると感じました。
今後も東南アジアにおける社会経済、学術研究、外交等の要所として一層発展していくと考えます。

それと同時に、今回のシンガポール・ポスト社の訪問で出逢った役員として活躍する相対的に若い女性たちの企業のガバナンスとビジネス改革の分野における活躍の実態から、シンガポールで進んでいる「多様性(ダイバーシティ)」の息吹を感じました。

シンガポールで出会った女性たち(その2)日本語・英語・ロシア語の通訳で活躍するロシアの「言語の達人」

  • 2019/06/23 19:46

2019年6月11日から14日まで、私は委員を務めている「内閣官房郵政民営化委員会」の公務出張でシンガポールを訪問しました。
出張の報告については委員会として公式にまとめます。
ここでは、前回の岩崎さんに続いて、この出張で出逢った女性たちについて皆様に紹介したいと思います。

日本語・英語・ロシア語の通訳で活躍するロシアの「言語の達人」
株式会社BSB通訳 代表取締役社長・代表会議通訳 ゼクリア・ナタリア(Zekria・Natalia)さん

2019年6月11日から14日まで、委員を務めている「内閣官房郵政民営化委員会」の公務出張でシンガポールを訪問した際に、日本語と英語の通訳を担当していただいたのは、ゼクリア・ナタリアさんです。
ナタリアさんは、横浜市に所在する株式会社BSB通訳の代表取締役社長・代表会議通訳です。

彼女のお母様はロシア人でお父様はアフガニスタン人とのことで、複数の文化を持つ両親に育てられたからか、大学に進学するときは、モスクワ国立言語大学の通訳学部を選ばれました。
この大学の通訳学部は、日本を含む他国の一般の学部と異なり、なんと5年制で、卒業の時には修士号が与えられるそうです。
そして通訳学部では、学生は22のロシア語以外の言語の中から必ず2つの言語を選ぶことを求められるそうで、彼女は、日本語・英語・ロシア語の3か国語を選んだそうです。

ところが、日本語は大変に人気があり、日本語専攻の定員はその時は5人だけでした。まさに大きな困難があったそうです。
しかも、彼女にはそれまで、日本語と縁があるような出来事や日本人との出逢いがあったわけではないそうですが、通訳をするなら日本語を中心にしたいと強く思っていたので、熱心に日本語専攻の選考に臨んで、その年度は6人の定員となり、彼女は日本語専攻の一人として選ばれたそうです。

大学3年生の時の1992年から1993年までの1年間広島大学教育学部に留学されて、西条キャンパスで、日本語だけでなく、日本人の生活・文化・経済・地域・自然等との実際を経験し、体感して、ますます日本が好きになったとのことです。
その後、11年間に亘って独立行政法人国際協力機構(JICA)東京本部の専属通訳として日本国政府の国際協力案件に従事し、2012年にシンガポールで通訳の会社を開業され、政府・自治体及び多くの日本企業の500以上の案件を担当し、通訳されてきました。

ナタリアさんはロシア人の配偶者の仕事の関係で、2017年3月からは通訳の事業の本拠を日本に移したそうです。
現在6歳と10歳のお子さんはインターナショナル・スクールに通学されているとのことです。
日本に本拠を移されたので、今回のシンガポールでの通訳の仕事をなさるために、わざわざ日本から来ていただくことになりました。
お子さんは配偶者がみてくださっているということで、優れた通訳者であり、母親でもあるナタリアさんの活躍を実現する、配偶者の理解と支える力を感じます。

さて、ナタリアさんの通訳としての仕事ぶりですが、視察相手や郵政民営化委員会委員から繰り出される専門用語が満載の説明や質疑応答について、明瞭に、しかも極力簡潔に通訳する実力は、本当に確かなものと感じました。
しかも、長らく日本の各省庁に指名され、シンガポール政府との多くの国際会議や政府間交渉の通訳をされてこられた経験をお持ちであることから、シンガポールの実情に沿った説明力によって、私たちの理解も高まりました。

特に、初めてのシンガポール訪問となる私にとっては、視察に同行していただいた在シンガポール日本大使館の一等書記官による丁寧な説明に加えて、生活経験のある彼女によるシンガポール政府や経済界の動向についての補足的説明が役に立ちました。
通訳としてだけでなく、長くシンガポールに住んでいた経験からの生活者としての情報も役立ったのです。

彼女は通訳の専門家として私たち視察団の視察の主旨や問題意識を最大限に尊重していただく謙虚さを保ちつつ、見事な通訳技術を発揮され、滑らかなコミュニケーション能力を活かす颯爽とした姿は、女性活躍を体現される一人の専門家として、実に麗しく、頼もしいものでした。

今では陳腐な表現となっていますが、いわゆる「キャリア・ウーマン」として、日本語・英語・ロシア語の通訳の技術を活かす「言語の達人」として、医療、M&A、保険事業、交通等の幅広い分野で、複数の国家間の学術交流、国際交流や経済交渉に貢献するナタリアさんの活躍が、これからも続くことを確信しています。

シンガポールで出会った女性たち(その1)物流業界での女性活躍の星

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  • 2019/06/21 22:44

2019年6月11日から14日まで、私は委員を務めている「内閣官房郵政民営化委員会」の公務出張でシンガポールを訪問しました。
出張の報告については委員会として公式にまとめます。
ここでは、この出張で出逢った女性たちについて、皆様に紹介したいと思います。

物流業界での女性活躍の星
Toll Group グループセールス&マーケティング 日系営業統括 岩崎久美さん

シンガポールでの視察先の一つは、航空機を主体とした国際宅配便、港湾も活用した運輸、ロジスティックスサービスを扱うオーストラリアの国際輸送物流会社Toll社が、シンガポールで2017年に竣工したToll Cityという拠点と、40年以上歴史的に有意義な拠点となっているTOPSという臨海部の物流拠点でした。

Toll社は2015年5月に日本郵便株式会社によって買収され同社の子会社となった会社であり、アジア太平洋地域を中心に、50カ国1200拠点のネットワークを運営している国際的物流を担う企業です。
さて、その視察先で出会ったのが、Toll Groupのグループセールス&マーケティング部門で日系営業統括をされている岩﨑久美さんでした。

岩崎さんは、2019年の春に日系大手物流企業からToll Group に移籍され、シンガポールに駐在されています。
前職での約30年間の在職中には、国際物流を担当されオーストラリアに駐在されたこともある、男性が多い物流の世界でその名前を知られた女性の活躍を代表する方でした。

たとえば彼女は、2011年、日本の企業が国内で製造した初の商用人工衛星を、世界最大のロシアの巨大輸送機アントノフ(愛称:ルスラーン)のチャーター機に載せて、名古屋セントレア国際空港から仏領ギアナまで輸送するプロジェクトにおいて活躍されました。
当時、各国の法令調査やチャーター機の手配から始まり、運搬業務全般を担い目的地まで送り届ける担当者が、岩崎さんだったのです。

大型の人工衛星を大型の貨物機で輸送するプロジェクトを、小柄で華奢な女性が担当することで注目されましたが、繊細な電子機器であるにもかかわらず、5トンから10トンの重さの人工衛星と、打ち上げ関係物資を合計すると約50トンとの重量の物資の飛行機による輸送だったのです。
それらをクレーンで慎重に積み込む仕事は数時間に及び、その責任者として総合的なチェックをするとともに、自らその大型の貨物機に乗り込んで無事成功させたのが岩崎さんでした。

その岩崎さんを、これまでの経験を基礎にしつつ、シンガポールToll社発の、東南アジアでの物流マーケティングの仕事に駆り立てたのは、優れた日本製品を国際的に流通させたいという想いと、東南アジアの優れた製品を日本に安全に輸送したいとの想いであったと感じました。
仕事において、男性とか女性とかの区別はないと言われますが、彼女は、この30年間、男性が主導し女性活躍が少ない日本の物流の世界で、岩崎さんならではの繊細さと綿密な仕事ぶりで、国際的な信用を獲得してきました。

現在、シンガポールでは、医薬品やワイン等の保管と適切な物流を通して、信用を確保してきているということです。
日用品から人工衛星まで、私たちの安全で安心できる生活を支える基盤が物流ですから、さりげなく、なにげなく、しなやかなたたずまいの岩崎さんが発揮する、物流業界でのグループセールス&マーケティングでの女性活躍の発揮を期待したいと思います。

三鷹ネットワーク大学の設立の経過と今回の出版の意義

  • 2019/06/13 19:48

2003年4月30日に三鷹市長に就任した私は、マニフェストに示していた「三鷹ネットワーク大学・大学院(仮称)」の設立の可能性を検討する組織として、2002年に発足していた「あすのまち・三鷹」推進協議会(平成18年3月事業終了)のプロジェクトの中に、「三鷹ネットワーク大学・大学院(仮称)検討委員会」を設置しました。

そもそも、私がなぜ「三鷹ネットワーク大学・大学院(仮称)」を構想したかと申しますと、私自身が市長に就任する前に、常磐大学人間科学部、ルーテル学院大学文学部、東京工科大学メディア学部という3つの大学で教員として働いた経験から、大学と自治体の協働の重要性を強く認識していたからです。
自治体は、少子長寿化、国際化、情報化、都市化といった社会の激動に伴う諸課題に対応するために、大学研究機関の叡智が必要であるし、大学としても、大学の学問に基づく社会貢献を実現し、大学生や大学教員の研究調査のフィールドを確保するためにも、自治体との連携が重要性を増していると考えていたのです。

そこで、検討する組織の委員長には、すでに三鷹市と地域の諸課題の解決に向けた調査研究をされたご経験があるとともに、当時の法政大学総長として、大学の教学と経営の両方に責任を取る役割をされていた清成忠男先生に依頼しました。
委員会には、市内のアジア・アフリカ文化財団、杏林大学、国際基督教大学、国立天文台、ルーテル学院大学に加えて、市外の電気通信大学、東京工科大学、東京農工大学、日本女子体育大学、法政大学が参加してくださいました。

そして、2004年4月に、検討委員会より、三鷹市に対して「ネットワーク大学」設置に向けた提言書が提出されました。
それを受けて、6月に三鷹ネットワーク大学(仮称)開設協議会(会長:清成忠男法政大学総長=当時)を設置し、2005年3月に、第3回開設協議会で14の教育・研究機関と三鷹市が基本協定を締結したのです。 

さらに、5月に、アジア・アフリカ文化財団、亜細亜大学、杏林大学、国際基督教大学、国立天文台、電気通信大学、東京工科大学、東京農工大学、日商簿記三鷹福祉専門学校、日本女子体育大学、法政大学、明治大学、立教大学、ルーテル学院大学、三鷹市を正会員とする、特定非営利活動法人(NPO法人)「三鷹ネットワーク大学推進機構」(理事長:清成忠男法政大学総長=当時)の認証を東京都へ申請しました。

8月には、東京都よりNPO法人認証書を交付され、法人登記を完了し、9月の市議会定例会でNPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構が公の施設「三鷹ネットワーク大学(以下ネット大)」の指定管理者に指定(平成17年10月~27年9月)されました。

その後、ネット大は、「民(市民)」「学(大学研究機関)」「産(産業界)」「公(市役所等の公共機関)」「官(国の機関)」がつながり、それぞれが持つ知的資源を最大限に活かして協働し、三鷹市から全国に向けて、そして、未来に向けて、地域課題の解決を含む「まちづくりの新しい扉」を開く「大学研究機関との協働の新しいカタチ」を示してきました。

創立10周年記念事業を契機として生まれた『人生100年時代の地域ケアシステム~三鷹市の地域ケア実践の検証を通して~』の本の執筆者は19名、協力者は40名を超えます。まさに、活動に基づいた多様な市民力と、協働の実践に裏付けられた本の出版となりました。

お求めは市内の本屋さん、あるいはアマゾンでもお求めいただけます。

三鷹ネットワーク大学が初めて出版した本は「人生100年時代の地域ケアシステム」

  • 2019/06/10 22:53

2019年(令和元年)5月24日、清成忠男(法政大学・元総長)監修・市川一宏(ルーテル学院大学・学長)編集代表による『人生100年時代の地域ケアシステム~三鷹市の地域ケア実践の検証を通して~』が、NPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構(以下ネット大)の初めての出版物として刊行されました。

これは、ネット大の初代理事長でいらした清成忠男さんが、2015年10月に創立10周年を迎えた記念事業として「三鷹の地域力の創生~2025年問題をにらんで~」をテーマとする「チャレンジ提案会」を開催したことを契機に、その内容を出版したいと構想されたことに始まります。
清成先生は出版社とも交渉されましたが、その途中で、ネット大の出版事業の第一弾にしようと決意され、出版に係る費用を寄付されたのです。

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ルーテル学院大学学長・市川一宏先生と

2025年問題とは、いわゆる戦後の団塊の世代が75歳の後期高齢者になる時期の福祉課題を示します。
人生100年時代と言われるけれど、人生100年を元気に幸せに実現するためには、多世代交流と多職種連携による「地域ケア」がキーワードとなることを、本書は、多元的な角度から示しています。

本書は、

  • 序章:三鷹市における地域ケアの現状と未来への展望
  • 第1部:安心して生涯をおくることができる地域づくり
  • 第2部:互いに助け合う地域ケアの創造
  • 第3部:人生100年時代の人づくり・地域づくり

で構成されています。

そして、市川さんから私へのインタビュー「地域ケア創設への思いを語る」と、清成さんと市川さんとの対談「地域ケアの過去、現在、将来を考える」が巻末に収められています。

市川さんから私へのインタビューは、5月1日にルーテル学院大学の学長室で行われました。
4月29日の公務を最後に市長を退任して2日後の、前市長としての初仕事でした。

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ルーテル学院大学学長・市川一宏先生からのインタビュー

私は、地域ケアを構想し、それに取り組んだ経過についてを中心に話しました。
2003年、市長に初当選してすぐに、公約の「地域ケア」に取り組んだ当初は、「三鷹市における地域ケア拠点等の整備に関する調査研究会」(座長:伊藤滋・東京大学名誉教授)を設置して、住民協議会、ほのぼのネット、医師会、杏林大学などのメンバーで拠点の整備について検討しました。
けれども、拠点としては、新設しなくても、長年にわたり市民に愛され活用されてきたコミュニティ・センターがあるではないか、という思いが私にはありました。
歴史的な住民協議会の活動や社会福祉協議会の地域福祉活動である「ほのぼのネット」のきめ細かい取り組みを尊重して、地域ケアのネットワークとしてどのように連携できるかが重要な課題と認識したのです。

そこで、井の頭住民協議会に相談したところ、「手探りでいいから始めてみよう」ということになったのです。
2004年の「地域ケアネットワーク・井の頭」の設立総会の前に、住民協議会の会長から、委員になる皆さんに「生の声で市長の考えを話してほしい」と言われて30分程お話したのですが、その後、新川中原、にしみたか、東部、連雀、三鷹駅周辺、最後の2015年の大沢と、各地域のケアネットワーク組織が発足するたびに、市長から理念や期待をお話することが恒例となりました。

地域ケアネットワークは、町会・自治会・住民協議会、医師会・歯科医師会・薬剤師会等、民生・児童委員、社会福祉協議会、地域包括支援センター、地域の民間福祉施設や福祉団体等が、緩やかにネットワークをつなぐことで、支援の必要な人々への多様な支援が開始されるきっかけを提供しています。

私が、この4月まで、市長として決して急がず、地域のテンポと特徴に合わせて取り組んでいただく過程で実感したことを要約すれば、

  1. 三鷹市の7つの住民協議会の活動の歴史、そこに結び付いた町会・自治会の活動は、地域ケアの基礎として他にはない財産であるということ
  2. 人の入れ替わりの激しい三鷹市に、新しく入って来た人と定住者の交流の拠点があるという強み
  3. 杏林大学付属病院はじめ比較的大きな病院が多数存在し、医師会・歯科医師会・薬剤師会・柔道整復師会など専門家集団が連携の力となっていること
  4. 市民も長寿を支える医療機関等への信頼感を持っていること
  5. ほのぼのネット、民生児童委員、日赤奉仕団など支え合いのきめ細かいつながりがあること
  6. ルーテル学院大学等の大学やNPOとの連携によりファシリテーター養成講座や傾聴ボランティアなどの人材育成のしくみができていること

などです。

人生100年時代が、どの世代にも、健康と生きがいとを実感する機会を増やすことによって、自己達成感や自己肯定感を充足することにつなげていくために、地域ケアネットワークは、益々その意義を高めていくように思います。

令和元年度電波の日・情報通信月間記念中央式典に参加、技術革新と人間生活の調和の必要性を痛感

  • 2019/06/04 22:54

6月1日は「電波の日」、そして、毎年5月15日から6月15日は情報通信月間ということで、それを記念する中央式典が、千代田区の帝国ホテルで開催されました。
私は、一般財団法人全国地域情報化推進協議会の理事を務めていることから、主催者の石田真敏・総務大臣及び遠藤信博・情報通信月間推進協議会会長(NEC代表取締役会長)から招待状をいただいて参列しました。

電波の日は、昭和25(1950)年6月1日に電波三法(電波法・放送法・電波監理委員会設置法)が施行されたことにちなみ、国民に対して電波利用に関する知識を普及啓発させる目的で、 昭和26年(1951)年電波記念日として制定されたものです。
ちなみに、私は昭和26年生まれということもあり、幼い頃から自分が生まれた年に誕生したこの電波の日に関心を持つとともに、急速に普及するラジオやテレビの放送に興味を持っていたことから、慶應義塾大学法学部政治学科2年生の時に、当時は2年生から履修することができたゼミナールで「マス・コミュニケーション」をテーマにした先生に学ぶことを選択したのです。

さて、中央式典では、「電波の日」総務大臣表彰、「情報通信月間」総務大臣表彰、情報通信月間推進協議会会長表彰、「地域発デジタルコンテンツ」総務大臣奨励賞の授賞がありました。

「電波の日」総務大臣表彰で注目したのは、一般財団法人日本コミュニティ放送協会北海道地区協議会の受賞でした。
受賞の理由は、平成30年北海道胆振東部地震に伴い、長時間の停電により「道内ブラックアウト」が発生した際、24時間体制で災害情報や生活情報の発信を続けて、被災自治体と連携して臨時災害放送局の運営サポートを行ったことについての表彰とのことでした。
電気に依存している現代社会において、停電はまさに夜の闇の「ブラック」という意味だけでなく、明るい昼間であっても市民生活の利便性を損ない、コミュニケ―ションを損ない、心身ともに健康を損なうことにつながる「ブラック」をもたらします。
だからこそ、コミュニティ放送の意義が再確認されたのです。

「情報通信月間」総務大臣表彰で注目したのは、群馬県前橋市の受賞でした。
前橋市は、マイナンバーカードを活用して、個人の医療・介護・健康データについて、個人情報を保護しつつ適切に市民や医療機関等が活用するモデル事業を実施されたり、いわゆる「電子母子手帳」の取り組みを進められています。
私は総務省の「ICT街づくり推進会議」の構成員として、前橋市を訪問し、具体劇な取り組み事例を学ばせていただいたことがあったことから、式典後の祝賀会で、山本龍・前橋市長に直接祝意を伝えることができました。

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式典後の祝賀会で、山本龍・前橋市長と

今年の情報通信月間のテーマは、「ICTで、人と地域の未来につながる、やさしい社会へ」ということです。
ICT、すなわち情報通信の技術的側面では、電気通信では5G、放送では4K8Kというように日本の技術水準は高度化しています。
さらに、電子知能(AI)の普及や、IoT:Internet of Thingsにより、インターネット経由でセンサーと通信機能を持ったモノの流通が距離を超えてモノの管理と流通を多様化してきています。

そこで、引き続き問われているのは、人間にとっての人間らしい暮らしや生き方とは何かということであり、生きる上で拠り所とする「価値」とは何かということではないでしょうか。

情報通信技術に翻弄されるのではなく、私たちが主体的に生きていく上で、情報通信技術の活かし方と負の面への対処の仕方が、引き続き問われているように思います。

※5G:2020年の実用化が目指されている第5世代移動通信システムの略称。2020年代の情報社会では、移動通信のトラフィック量は2010年と比較して、1000倍以上に増大すると予測されていることから、高速・大容量に加え、多接続、低遅延(リアルタイム)を実現し、人が持つ端末機器からIoTまで、幅広いニーズに対応できることを目指して、現在規格化が進行中です。

※4K8K:現行ハイビジョンを超える超高画質を実現する、次世代の映像規格が4K・8Kであり、2018年12月1日から「新4K8K衛星放送」が始まりました。4Kは現行ハイビジョンの4倍の画素数で、8Kは現行ハイビジョンの16倍の画素数であり、高精細で、臨場感のある映像が実現できますが、新4K8K衛星放送を受信するには、この新しい規格に対応した受信機(テレビ、チューナー等)が必要になります。

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