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老川祥一さんから近著の『政治家の責任〜政治・官僚・メディアを考える〜』(藤原書店 2021年3月)を頂きました。

老川祥一さんから近著の『政治家の責任〜政治・官僚・メディアを考える〜』(藤原書店 2021年3月)を頂きました。

3期9年間「内閣官房郵政民営化委員会」の委員を務め、先日私とご一緒に退任した読売新聞 グループ本社代表取締役会長・主筆代理で読売新聞東京本社取締役・論説委員長の老川祥一さんから近著の『政治家の責任〜政治・官僚・メディアを考える〜』(藤原書店 2021年3月)を頂きました。


老川さんは政治記者として50年、戦後政治史における政治家や官僚の言動の軌跡から、社会の変容、公文書の意義やメディアの役割について論じています。

「まえがき」には、「政治家の権力は、彼らを選んだ国民から託され、国民のために使われるもの、というのは民主政治のイロハだか、その原理についての自覚と責任が失われると、権力の座は我が身を滅ぼす落とし穴に変わる。それを防ぐには、不断の緊張感と自己抑制の努力、それに側近たちの率直な忠言が必要なのだが、指導者本人も側近たちも権力を楽しむようになったら、破滅の危機はもうそこにある。本人たちが困るだけでは済まないのが政治の世界だ。それによって生ずる混乱は国民生活に及ぶ。」とあります。
そして「政治家の責任ー。国家と国民を背負って行動する、というその自覚と責任感の希薄化が、近年の政治の根底にあるように思える。」とあります。

このような問題意識から、老川さんは、「第1章 政治のウソをどう見るか」「第2章 責任をとらない政治」について具体例を分析しながら問題提起します。
その上で、「第3章 国家の基盤としての公文書」「第4章 政治の劣化と官僚の劣化」「第5章 政治改革の功罪」を論じた上で、及川さんご自身の新聞人・ジャーナリストとしての当事者意識から「第6章 言論とメディアの責任」「第7章 政治の取材はどうあるべきか」と提言をしています。

私は、1999年4月に、東京工科大学に日本で初めて創設された「メディア学部」の教授に赴任しました。
大学生時代に慶應義塾大学で専攻したのはマス・コミュニケーション論であり、同大学大学院で専攻したのは、ニュー・メディア論、情報政策等でした。

そこで、及川さんが本著の中で引用されているマックス・ウェーバーの「行政の文書主義の原則」、ウォルター・リップマン『世論』での論述である、報道は「利害関心に捉われず、一定の距離をおいて対象をとらえ、問題に精通すると同時にさまざまな角度から光をあてて、複数の視点を読者に提示し、可能なかぎり公平で客観的に記述」するという、報道における誠実な態度の必要性の紹介などには、大いに共感しました。

そして、老川さんは、米国のワシントン支局に駐在し取材活動を行った経験もあることから、日本だけでなくグローバルな視点でジャーナリズムの役割を考察しています。
そこで、ジャーナリズムとは政治家のウソを単に批判することではなく、政策が、①国民生活にとってよい結果を生むかどうか、あるいは国家の平和や安全に役立つかどうか、という結果のよしあし、②不正がないかどうか、政策や立法行為が国家や国民生活にとって弊害をもたらす危険性がないかどうか、それを調べて、主権者である国民に広く、そしていち早く知らせることが必要だ」と述べています。

そして、「ジャーナリストはそうした政治家と、密着しつつ一定の距離を保ち、自分の利害だけでなくもっぱら『公共のため』という観点から、政治の実態を観察し、報道する」ことが求められていると論じているのです。

私が大学院を終えた後に訪問研究員を務めていたのは慶應義塾大学「新聞研究所」でしたが、今は「メディア・コミュニケーション研究所」と名称変更しています。
また、私が1992年に客員研究員をしていた東京大学「社会情報研究所」は、ちょうどその年度に「新聞研究所」から名称変更をしたところで、現在は東京大学大学院「情報学環・学際情報学府」となっています。

このように、従来はメディアを研究する研究所の名称に「新聞」が代表されていましたが、最近は多メディア化が進んでいることから、名称には「メディア」や「情報」という言葉が使用されています。

こうした中、新聞社の政治部で長年取材をされて、ジャーナリズムの実践をされてきた「新聞人」「言論人」としての老川さんの著書に書かれている言葉の一つひとつには、実践に基づいた、透徹した考察とメッセージが込められていると受け止めています。
コロナ禍の今、私たちの安全安心な暮らしと政治の密接な関連性が益々顕著になっている今だからこそ、ぜひ読んでいただきたい著書です。

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