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東日本大震災が発生した3月11日を迎えて

東日本大震災が発生した3月11日を迎えて

3月11日午後、近所を歩いていると、仲睦まじい野鳩のカップルに出会いました。
自宅玄関前では、山形県で活動している三鷹市出身の日本画家・福王寺一彦さんから送られてきた【啓翁桜】が美しく花びらをほころばせて、近づく春を感じさせてくれます。

そして、帰宅して迎えた午後2時46分、東日本大震災の発災の時間に、防災無線で黙祷の呼びかけが流れ、私は心を込めて黙祷しました。
2011年のこの日、三鷹市議会予算委員会で防災を含む款について質疑応答をしている際に、市議会全員協会室で大きな揺れを感じました。
それは、私がそれまで経験したことがないほどの強さと長さの地震でした。
揺れの間、机の下に隠れた私が持っていた、いわゆるガラケーの携帯電話に登録していたNHKから届いたメッセージは【東北地方で震度7、大津波警報発令】と表示されていました。
【震度7】も【大津波警報】も初めて読む文字でした。
予算委員会委員長の伊藤俊明議員にその内容を伝えると、
「市長! 休憩にするから、すぐに行って対応してください!」と言ってくださいました。
そこで、すぐに防災課に行って一番強い震度は「震度5弱」で、余震が続いていることを確認し、階段で第1庁舎の5階から1階まで各階を急いで確認した後、放送室に出向いて、庁内放送を行いました。
原稿を書く時間も惜しいので、まずは東北地方で大地震が発生し、大津波警報が出ていることを報告し、庁内に居る市民の皆さまと職員には、落ち着いて、状況をよくみて行動することをお願いするとともに、3時過ぎに庁内の災害対策会議を開催することを連絡しました。
会議の直前に確認した市長室の私の椅子の上や周りには、後ろの本棚の本が重なって落ちていました。
その後、余震のある中、断続的に災害対策会議を開催し、市内全域での【帰宅困難者避難場所の提供】、3日後の【計画停電】や「赤ちゃんの飲用に不適とされた水道水に代わるペットボトル水の個別配布】【被災地への支援物資の輸送や職員派遣】等を含む多様な対策や対応を行っていくことになりました。

そして、あれから14年の年月が流れました。
災害関連を含む亡くなった方は2万2千人以上であり、被災者・ご遺族の皆様の命や心身の傷は決して完全に癒えることはないと思います。

一瞬にして失われた命、建物、家財、風景や想い出の品々などなどが完全に戻ってくることはないとの冷厳な事実を受け止めなければならないことを口惜しいと思います。
けれども、その後のお1人おひとりが過ごしてきた大切な日々や時間と、支え合う人々の多様な交流によって、少しでも、それらの傷や喪失感が和らいくこと、これから少しでも癒されていくことを願います。
心から祈ります。

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