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作家 津村節子さんとの出会い(その2)

作家 津村節子さんとの出会い(その2)

先日、お目にかかった作家の津村節子さんには、私が三鷹市長在任中、文学のまちづくりにおいて大きなご貢献をいただきました。
そこで、三鷹市市制施行65周年の平成27(2015)年11月3日、三鷹市議会の議決をいただいて、三鷹市初の女性の「三鷹市名誉市民」に推挙しました。

その記念事業として三鷹市立図書館で「作家 津村節子の世界~夫 吉村昭とともに」を開催しました。
この展示では津村さんとともに、太宰治賞受賞作家であり夫の故・吉村昭さんの作品紹介や、直筆の原稿なども展示しました。
その後、作品の写真資料や直筆の生原稿、書斎での愛用品など、津村さんの執筆の様子がうかがえる品々に加え、夫の故・吉村昭さんとのプライベート写真などを展示しました。

その後、平成24(2012)年1月に開催の「平成23年度文学講演会」で、津村さんには市内在住の元筑摩書房編集者である松田哲夫さんとの対談形式での講師をお願いしました。テーマは「小説を書くこと」で、十代なかばに最初の作品を書いてから約70年の執筆生活について、少女小説のころ、吉村昭さんとの出会い、芥川賞受賞、子育てのころなどのお話をしてくださいました。
津村さんが夫である吉村昭さんの作品はほとんど読まれないことなど、自らの読書遍歴、小説家としての軌跡、そして夫との死別のことなど、興味深いお話を率直にされたのが印象的です。

そんなご縁がある津村さんと先日お久しぶりにお目にかかった際、お机の上に発見したのは、私が幼い日に亡母と一緒に読んだ『ひまわりさん』という、津村さんが書かれた少女小説です。

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大正12(1923)年生まれの私の母は、助産師・看護師の資格を取り、戦時中は病院の助産師・看護師として働き、戦後は武蔵野市吉祥寺で「清原助産院」を開業していました。そんな母にとって、津村さんは少し年下とはいえ同世代の女性であり、その活躍を大いに力にしていました。
そんな母に育てられた私が、津村さんが書かれた文章と出会ったのは、本当に幼い日のことでした。それは「少女小説」というジャンルの作品との出会いでした。

とはいえ津村さんが大学在学中の昭和26(1951)年9月、『少女世界』に「花とパラソル」を発表し、少女小説家としてのスタートを切ったことはあまり知られていません。
まさに、その昭和26年9月に私は生まれています。
ご縁です、本当に。

津村さんは、平成31(2019)年、作家・谷口桂子さんのインタビューの中で、少女小説の発表についてこのように話しています。

少女小説というものを書いてはみたものの、誰に読んでもらったらいいかわかりません。まさかいきなり講談社や小学館のような大手出版社に持ち込む度胸はありませんから、書店の店頭で見た「少女世界」という雑誌を出している富国出版社を訪ねてみようと思いつきました。取り合ってもらえなくてもともとと諦めていたんですが、編集長はその場で読んでくださって、採用になり、また次を持っていらっしゃい、と言って下さいました。何作か書いているうちに講談社の「少女クラブ」からも原稿依頼が来て、「ひまわりさん」という戦災孤児の元気な少女が主人公の話が大当たりしました。少女小説を書きながら、同人雑誌に作品を発表したいという気持ちは変わりませんでした。書くことに自信ができて来て、一層書きたい気持ちが募っていました。

津村さんの少女小説についての調査や作品研究もほとんどされていないように思いますが、津村さんが若年者に向けて昭和26年から昭和45年の間、『少女クラブ』『女学生の友』『ジュニア文芸』で小説を書き発表された期間は、私が生まれてから高校を卒業し大学に進学する時期にあたります。津村さんは三木澄子さん、佐伯千秋さんとともに『女学生の友』の付録である文庫本を執筆されており、それは10作を超えているとのことで、少女、若い女性に、文学の世界を身近にされてこられたのです。
私は多感な思春期に、津村さんの少女小説のジャンルに影響を受けた少女の一人です。

その後、津村さんは昭和40(1965)年に第53回芥川賞を受賞されました。
平成23(2011)年第37回川端康成賞を受賞された際には、津村さんのご招待で私も授賞式に参加させていただきました。
私は幼い頃から小説を通して津村さんと出会っていたというご縁の深さを、津村さんの机の上の『ひまわりさん』から再確認しました。

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