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禅林寺の森林太郎の石碑

禅林寺の森林太郎の石碑

6月19日が誕生日及び桜桃忌の日である太宰治は、『舞姫』『雁』『高瀬川』『阿部一族』などの小説で知られる森林太郎(作家・森鴎外)のお墓のそばに埋葬してほしいと希望したとされています。
三鷹市下連雀の禅林寺にある森林太郎のお墓のはすむかいに太宰治のお墓があります。
そして、禅林寺の山門をくぐり、境内の藤棚の下を事務所に向かって歩くと、その途中の右側・東側にあるのが、森林太郎の石碑です。

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森林太郎は大正11(1922)年7月9日午前、親族と親友の賀古鶴所(かこつるど)らが付き添うなか、満60歳で亡くなりました。
その直前の7月6日に、彼の遺言を賀古鶴所が聞き取ったとされており、石碑の内容は、賀古氏に最後の言葉を託すということと、「余は石見人森林太郎として死せんと欲す」を主旨とする森林太郎の遺言です。

賀古鶴所は、明治期から昭和初期の医師で、日本陸軍軍医であり恩賜財団済生会病院の発起人の一人です。
それとともに、歌人として常盤会を開催しています。
賀古は陸軍依託生として同じ陸軍軍医になる森林太郎と東京大学医学部の宿舎が同部屋で、大変に親しくしていたとのことです。

その遺言には、自分が亡くなったらお墓に骨を納めるだけにして、石碑のようなものは建てないようにとあります。
そして、遺言にあるように、墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻まれました。

まずは、上京した際に住んだゆかりの地である向島の弘福寺に埋葬されたそうですが、亡くなった翌年に関東大震災が発生した後、禅林寺と出生地の津和野町の永明寺に改葬されました。

御住職の木村得玄先生に伺いますと、『森鴎外記念館ニュース』には、津和野にお墓のレプリカを作るため分骨についての集まりをしたのは昭和28年5月24日のことだそうです。
「分骨」と書かれていますが、実際はお墓の土を少し分けて納めたということです。

そして、禅林寺の境内には、遺言に関する石碑が建てられたわけです。
木村得玄先生は、「若い頃に石碑の建立がされた頃のことを思い出すと、野田宇太郎氏の発起で、建築家の谷口吉郎氏の協力で石碑が建立されたのです。野田さんは賀古さんが聞き取った内容はぜひ残すべきだというお考えで、石碑の建立に熱心に取り組んだのです。」と教えてくださいました。

野田宇太郎は明治末に生まれ、戦前戦後に詩人・文芸評論家として活躍し、特に「文学散歩」のジャンルを確立したことで知られています。

文学散歩の視点からは、お墓だけでなく、森林太郎の最期の言葉を残したかったのかもしれません。
谷口吉郎は、昭和期の建築家で、東宮御所、帝国劇場の設計者として知られており、金沢市名誉市民第1号の人です。建築家の視点での建立の協力が伺えるような、この石碑はかなり確固たる佇まいが感じられます。
禅林寺に「森林太郎」として眠る森鴎外を墓参される方には、是非この石碑にも立ち寄って、森林太郎の想いを受け止めていただければと思いました。

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