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私の詩が掲載されている1974年発行の『三田詩人』第6次二号を発見しました。

私の詩が掲載されている1974年発行の『三田詩人』第6次二号を発見しました。

慶應義塾大学の学生時代の私の詩が掲載されている、1974年7月発行の『三田詩人』第6次二号を発見しました。
学生による三田詩人会の発行で、知人が「応募したら」と声を掛けてくれたことを思い出しています。
「午後の音」と「闇夜の接続詞」というタイトルにも、詩 にも、自分自身の「青春」を見つけて、甘酸っぱい想いとそこはかとない恥ずかしさが込み上げてきました。

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慶應義塾大学の学生時代に『三田詩人』に掲載された私の詩を読んだ先輩の推薦で、日本音楽著作権協会名誉会長 作詞家 の吉川静夫さん(1999年逝去)主宰日本作詞家グループ『詩鬼』の同人になりました。
吉川さんは当時、歌手の森進一さんの「女のためいき」や青江三奈さんの「長崎ブルース」などのヒット曲で知られていましたが、前職が小学校の校長であったこともあり、後進の指導や発掘に力を入れていました。
千昌夫さんの「星影のワルツ」の作詞で著名の白鳥園枝さんも同人でした。

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私は、1974年から約2年は同人誌に詩を投稿して掲載され、毎月吉川さんの自宅で開かれていた講評会にも時々参加しました。
同人たちは、いつの日にか、同人誌を読んだ作曲家の目に止まり、曲がついて、プロの歌手に歌っていただける日が来ることを願っていました。
私の場合は、吉川先生の講評を受けて、そうなることは極めて難しいことであると受け止めていましたが、正直に申すならば、そんな日が来ることを少しは期待してもいました。

けれども、やがて修士論文作成に取り組む中で、論理的な思考を優先していき、感性や情緒に係る脳の働きがうまく機能しなくなったのか、詩らしきものはなかなか書けなくなってしまいました。
今思うと、それは詩が書けなくなったことの言い訳だったと振り返ります。

そんなわけで、残念ながら私の詩には、1つも曲がつくことはありませんでした。
今からでも遅くないので、また、詩を書き始めてみようかと、若い頃の自分の詩を読み返しながら考え出しています。

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