エントリー

地域ケアネットワーク新川・中原のメンバーと烏山寺町をウオーキングしました

地域ケアネットワーク新川・中原のメンバーと烏山寺町をウオーキングしました

私が副代表を務めている「地域ケアネットワーク(ケアネットしんなか)」では、想定以上に長いコロナ禍で、少しでも安心して外出していただきたいとの思いから、ウオーキングの事業を増やしています。
先日は、秋晴れの快い午前中に、初めて烏山寺町(からすやまてらまち)を散策しました。
ここは、東京都世田谷区北烏山二丁目、四丁目〜六丁目にかけて26の仏教寺院が立ち並ぶ地域です。
三鷹市新川中原地域に住んでいる市民の最寄り駅は京王線の仙川駅です。そこで、仙川駅に集合して、まずは電車でひと駅お隣の千歳烏山駅に向かいました。下車してすぐにある烏山区民センター前の広場で、健脚コースとゆったりコースそれぞれ複数のグループに分かれて、寺町の道は狭いので、安全を図る為に、それぞれのグループの間隔をあけて出発しました。

私はゆったりコースの一番後ろについて、主として参加者の安全確保を担当しました。
烏山寺町の成立は関東大震災後の1923年(大正12年)ということです。
震災で被害を受けた、主として浅草、築地、本所、荒川などにあった寺院が集団で移転してきたのが直接的な契機とされています。
特に、1920年(大正9年)から1923年(大正12年)4月まで東京市の市長を務めた後藤新平は、震災前の1919年(大正8年)の都市計画法と市街地建築物法の公布によって東京の都市計画を推進しました。
そして、ちょうど100年前の1923年(大正12年)9月1日の関東大震災発生の翌日に成立した山本権兵衛内閣で内務大臣に就任し、帝都復興院の総裁を兼務することになりました。
そして、進めたのが「震災復興再開発事業」でした。
それは、それまで計画はあってもなかなか進んで来なかった東京市内あった寺院と墓地の郊外への移転を促進することを含めたよう、関東大震災後の1925年(大正14年)には、東京市墓地改葬規則によって1934年(昭和9年)12月末日を期限として東京市内の共葬墓地は市外の墓地または納骨堂に改葬することが決まったことにも表れています。

こうした背景の中、烏山には1924年(大正13年)から1949年(昭和24年)にかけて、以下のとおり寺院が移転してきたとされています。
1924年(大正13年) - 浄因寺、源正寺、乗満寺、常栄寺
1925年(大正14年) - 源良院
1926年(大正15年) - 善行寺、永願寺
1927年(昭和2年) - 妙寿寺、専光寺、妙高寺、幸龍寺
1928年(昭和3年) - 永隆寺、玄照寺、存明寺、称往院、妙善寺、萬福寺、入楽寺、常福寺、妙揚寺、順正寺
1929年(昭和4年) - 宗福寺
1937年(昭和12年) - 妙祐寺
1939年(昭和14年) - 西蓮寺、高源院
1949年(昭和24年) - 多聞院

その日、私たちは、まずは「下山千歳白菜発祥の地」でもある地元の旧農家が開放してくださっている「北烏山九丁目屋敷林・市民緑地」を訪ね、屋敷林や蔵などを見学しました。
そして、5月には多品種のつつじが見事な「烏山つつじ緑地」を経て、道の両側に次々と連なる寺院を訪ねました。
訪問したすべての寺院を紹介することはできませんが、たとえば、浄土宗称往院では、かねてこの寺の僧侶の打つ御蕎麦が好評であり過ぎたために、敢えて、「不許蕎麦」とそばを許さないと書いた石柱があるのも確認しました。
法華宗妙寿寺では、仏教の修行もしたという宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩碑や、関東大震災で被災した鐘楼と、東日本大震災で被災した灯篭に出会いました。
また、専光寺には喜多川歌麿のお墓がありました。
最後に訪ねた高源院には、みごとな池があり、鴨が優雅に泳いでいました。

こうして、数えきれないほどのお寺を訪ねた後、玉川上水沿いを徒歩で久我山駅まで歩き、バスで三鷹市内まで戻りました。
三鷹市のすぐお隣にある烏山寺町を訪ねたことで、関東大震災100年目の今年であることを改めて確認するとともに、寺院を通して、歴史の様々な側面が継承されていることを知り、人間の生活が重ねてきた歴史の息吹を感じることができました。

ユーティリティ

記事検索Entry Search

Search
キーワード

過去ログArchives

RSS Feed