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自治体行政学の恩師である大森彌先生が逝去されました

自治体行政学の恩師である大森彌先生が逝去されました

新聞各紙の10月22日(日)付け朝刊に、東京大学名誉教授の大森彌先生の訃報が掲載されていました。9月18日に心不全で逝去され、告別式は近親者で執り行われたそうです。享年83歳でした。
私は東京大学の出身ではありませんが、大森先生は私にとって大切な行政学の恩師です。
突然のご逝去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。

今振り返ると大森先生と最後におめにかかったのは、2022年4月27日に行われた「公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所創立100周年記念会」(パレスホテル)の日でした。
記念会の前に来賓として来訪された大森先生を、本財団の理事である東京大学名誉教授の神野直彦先生と評議員である私はお迎えして、少しの間対話することができました。
大森先生は、本財団が100年を迎えた意義を都市の地方分権の視点から説明する少し長い祝辞を依頼されたとのことで、都知事や都議会議長が来賓として祝辞を述べられる記念会でゆっくりと時間をいただいて祝辞を述べることができるのは、本当に光栄ですと話されていました。本当に、いつも謙虚な先生でした。
私が大森先生と最初に出会ったのは、1988年9月から1989年5月まで開かれた東京都「都市型CATV専門家会議」に委員として参加した際、東京大学助教授であった大森先生が座長をつとめられました。
それに先立って、1988年4月から1990年3月には自治省「長寿社会における地方自治制度の健全な発展のための施策に関する調査研究委員会」、また「地方行政運営研究会公務能率研究部会」でも、座長の大森先生と委員としてご一緒しました。
そうしたご縁がさらに続いて、1992年7月から三鷹市長に就任する直前の2003年3月まで、東京都特別区区長会「区政問題懇談会」委員として、東京都特別区の基礎自治体としての自律についての検討に参画しました。

特に印象的であったのが、1997年9月から1998年9月まで委員として参画した東京都の「東京都における情報公開のあり方に関する懇談会」で、座長である大森先生のもとで審議に参画し、それまでの「公文書開示条例」を「都民の知る権利」を保障する「情報公開条例」の制定へと転換する報告書をまとめたことです。
学会の活動としては、1994年 4月から大森先生のご推薦で自治体学会にも加入して、自治体行政学の研究活動を進めるとともに、一時期は編集部員をつとめました。
また、総務省自治大学校で講義の日が重なる時には、昼食をご一緒したりすることもありました。
さて、私は1999年10月から2001年10月までの間活動した「みたか市民プラン21会議」の3人の代表の1人をつとめました。この組織は、当時の三鷹市長と市民がパートナーシップ協定を交わして、三鷹市の基本構想改定及び第3次基本計画策定の原案を作成するために、公募市民の最終登録メンバー375名によって活動しました。
この活動の際には、私が自治体学会の会員であったこともあり、1999年度の活動については、自治体学会でご活躍の東京大学名誉教授で当時は国際基督教大学教授の西尾勝先生、成蹊大学名誉教授の佐藤竺先生に加えて、当時は千葉大学教授であった大森先生に、アドバイザーをお願いしました。
大森先生は、中間報告の際のコメンテーターとして参加してくださり、オープンで行うことの重要性、今回取り上げられなかったことでも諦めないで自治の息吹を吹き込むことが大事、分科会で重複している事項は重要事項として全体のコンセプトになる可能性があるなど、市民参加と協働の取組みに、常に前向きな激励をしてくださいました。

その後、私が三鷹市長に就任してからも、折々にお目にかかる機会をいただいて、「まさか、清原さんが市長になるなんて、まったく想像もしていなかったけれど、市民としての参加と協働の活動経験が市民を信じる力を持つ立場として必ず生きるはずだから、頭だけで考えるのではなく、これまでのように心を動かしながら自治体経営をすすめてくださいね」と激励してくださいました。
三鷹市長在任中に、先日も講義に伺った全国市町村国際文化研修所で、講義を同じ日にする機会があり、私は早めに伺って大森先生の講義を聴講しました。
自治体行政のこれまで、今、そして未来を語る迫力ある語り口に引き込まれた日を、鮮やかに思い出しています。
天国でも、先に逝かれた西尾勝先生はじめお仲間と自治体行政について語り合いながら、私たちを応援してくださることを願っています。

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