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ケアネットしんなかのウオーキング事業で武蔵国分寺跡を訪問しました

ケアネットしんなかのウオーキング事業で武蔵国分寺跡を訪問しました

朝方までの小雨も止んで、素晴らしい青空が広がる秋の日、副代表をつとめる地域ケアネットワーク新川中原(ケアネットしんなか)のウオーキング事業で武蔵国分寺跡を訪ねました。
私は先導役を引き受けましたので、他の先導役と一緒に、本番の日までに1回、現地を訪問して経路や史跡の内容などを確認して臨みました。
当日はまずはJR三鷹駅前デッキに集合して、5つのグループに分かれて、JR中央線で西国分寺駅に向かいました。
西国分寺駅前広場で、改めて全員が集合して、畑谷代表からウオーキングの趣旨と留意事項等の挨拶を聴きました。
私は杖をついて参加される方もいるどちらかというと「ゆっくり歩く」5番目の最後に出発するEグループの先導担当として、もう一人のスタッフと一緒に、5名の参加者をご案内しました。

最初にご案内したのが「東山道武蔵路跡」を紹介する「東山道武蔵路遺構再生展示施設」です。東山道とは、7世紀後半から8世紀前半にかけて整備された都(みやこ)と地方の国府を結ぶ幹線道路の1つです。
東山道武蔵路は、都から信濃の国(現在の長野県)や上野国(現在の群馬県)を経由して武蔵国へ南下するための支路であり、現在は側溝跡や道路幅をアスファルト面に表記して、幅15メートルに及ぶ当時の広い路の姿を分かるようにしています。
この道は、国分寺の建立に必要な瓦を供給した、当時から瓦の生産をおこなっていたという窯業が盛んな埼玉県鳩山町に通じているのです。その日の午前中は、ちょうど、地元のボランティアの方々がその道路にチョークで絵を描くイベントを行う準備をしていました。
その後、広い東山道跡の道を辿り、東京都立多摩図書館、東京都公文書館や建設中の立派な国分寺市役所新庁舎の前を通り、国分寺薬師堂に向かいました。
薬師堂は、1335年に新田義貞の命により僧寺金堂跡付近に建立されたものが、1706年ごろに現在の地に移築されたとされています。新田義貞は分倍河原の戦いで先の薬師堂を焼いたことを後悔して、新築したと伝えられています。
堂内には、重要無形文化財の木造の薬師如来像が安置されているとのことです。その薬師堂から国分寺跡迄は、苔むす庭園の真ん中に長い階段がありますが、つえをつかれている方を含む参加者はゆっくりと各段を降りながら、薬師堂の歴史を振り返りつつ、庭園の静けさに心を落ち着かせて過ごしました。
そして、薬師堂の古材を使用しているとされる仁王門をくぐって次の目的地に向かいました。
それは、741年の聖武天皇の詔により、全国に設置された国分寺の1つである武蔵国分寺跡を中心とした国分寺市立歴史公園です。
700年代には、地震や天然痘と思われる疫病が流行して社会不安が高まっていたとのことです。聖武天皇は、そうした社会不安を鎮静化して、人々の心の平安を保つために国分寺の建立を進めたとされています。

武蔵国分寺の僧堂講堂、金堂の跡の囲いや経路には、国分寺跡で発掘された瓦(かわら)が使用されています。奈良時代からの千3百年の時を超えて、私たちに人間の営みの強さを伝えてきます。ちょうど、現れた黒猫が私たちの訪問を歓迎してくれたように見えました。
国分寺と同様に聖武天皇が全国に建立を進めたと言われる七重の塔の跡も訪ねました。
こうして、奈良時代以降の今につながる時の流れを体いっぱいに感じながら、江戸時代の名主の本多家跡に整備された武蔵国分寺跡資料館で休憩を取りつつ長年の発掘調査の経過などを学びました。

資料館を出ると始まるのが「お鷹の道」です。これは、江戸時代に徳川家のお鷹場であったことに由来しています。夏にはホタルが飛びかうという湧水による疏水や「真姿の池」などを巡ると、途中には国分寺の野菜や果物を庭先で販売する農家がたくさんあります。
こうしてお鷹の道を辿りながら、国分寺駅に向かいました。
お蔭様で、気が付けば、AグループからEグループ迄、大きな時間の差がなく、最後の集合場所の国分寺駅南口の都立殿ヶ谷戸庭園横の公園に到着しました。
参加者の皆様は、「お仲間と一緒だったので、階段や坂道なども気にならずに歩き通すことができました」「国分寺跡を訪ねることで、人の長い歴史を肌で感じることができました」と、爽やかな笑顔で、三鷹駅までグループ仲良く戻りました。

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