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師走の「蘆花恒春園」を訪問しました

師走の「蘆花恒春園」を訪問しました

京王線に「芦花公園駅」があります。
京王線沿線に住む私には馴染みの駅ではありますが、普段は通り過ぎるだけで、下車することはほとんどありません。
その駅の近くに作家徳冨蘆花(徳冨健次郎)に寄贈された公園があることから駅名になっているとは承知していましたが、その公園には小学生の頃に行ったきりでした。
そこで、その風景を思い出したくて、先日数十年ぶりにふらっと訪ねてみました。
茅葺き屋根の住居に入ると、その中は部屋に上がることもできて、明治・大正・昭和の暮らしの道具なども残されていて、タイムスリップした感じです。
樹齢の長さを感じる木々とともに、徳冨蘆花が生きた時代の雰囲気を感じることができました。
1868年熊本県水俣市生まれの徳冨蘆花は、2008年2月にこの地(現在の世田谷区粕谷一丁目)に自宅を構え、多くの作品を生み出してきました。
特に「國民新聞」に連載した『不如帰』は明治時代のベストセラーのひとつとして知られています。
正直に言うと、私は大学受験の時にあらすじを調べただけで、完読したことはありませんが、文学史の中で覚えるべき作家として強く認識していました。
また、戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家として、「平民主義」を唱えるなど活躍して、『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られている徳富蘇峰が兄ということでも知られています。
蘆花の自宅は、大正7(1918)年に雅号として「永久に若い」という意味を持つ「恒春園」と名付けたそうです。
昭和2(1927)年に逝去したのち、愛子夫人が当時の東京市に寄贈して、「蘆花恒春園」として一般に公開されました。
園内の掲示板によると、昭和61(1986)年に東京都の史跡に指定されています。
記念館は、ゆかりの本や写真、映像などが展示されていましたが、入り口にカウンターが置いてあり、入館した人が自分でカウンターを押す事になっていました。
特に案内や説明する職員は不在でしたが、私だけでなく、他の入館者もゆったりと、じっくりと見学している様子でした。
また、住宅を寄贈した後で園内に愛子夫人が住むために建てられた旧居は集会室として公開され、時々徳冨蘆花の作品等文学に関する学習会などが開かれているとの掲示がありました。
旧居を出てすぐのところに、徳冨蘆花夫妻の墓所があり、お参りをしました。
横にある墓誌は、兄の徳富蘇峰が記したとあります。
徳冨蘆花夫妻にはお子さんがいなかったということで、この住居が寄贈されたことから、地域に公園として公開されることで、文学への関心喚起だけでなく、日常的には地域交流や散策を通した住民の健康活動の機能を果たしていることが伺えます。
また、公園内にはドッグランがあり、多くの愛犬家で賑わっていました。
そして、園内の花の丘エリアには数個の花壇がありましたが、それを運営・管理しているのはNPO法人芦花公園花の丘友の会ということで、当日も多くの方がお揃いのジャンパーを着て花壇の活動をしていました。
これらの住居などの史跡と記念館は無料で公開されています。
恒春園区域の開園時間は9:00~16:30で、徳冨蘆花旧宅および蘆花記念館は16:00までとのことです。
常時開園ということですが、サービスセンター及び恒春園区域は年末年始は休業となるとのことです。
東京都の特別区の中で最も人口が多い世田谷区の環状8号線に近い住宅地の一角にある「蘆花恒春園」は、「冬」でも「春」を感じさせる雰囲気の温かさで迎えてくれました。

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