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【東京女子大学の元学長・湊晶子先生との再会】

【東京女子大学の元学長・湊晶子先生との再会】

2003年4月30日に三鷹市長に就任した私は、マニフェストに示していた「三鷹ネットワーク大学・大学院(仮称)」の設立の可能性を検討する組織として、2002年に発足していた「あすのまち・三鷹」推進協議会(2006年3月事業終了)のプロジェクトの中に、【三鷹ネットワーク大学・大学院(仮称)検討委員会】を設置しました。

私は市長に就任する前に、常磐大学人間科学部(茨城県水戸市・新設大学)、ルーテル学院大学文学部(三鷹市:学部改組)、東京工科大学メディア学部(八王子市:学部新設)という3つの大学で教員として働いた経験から、大学と自治体の協働の重要性を強く認識していました。
自治体は、少子長寿化、国際化、情報化、都市化といった社会の激動に伴う諸課題に対応するために、大学研究機関の叡智が必要であるし、大学としても、大学の学問に基づく社会貢献を実現し、大学生や大学教員の研究調査のフィールドを確保するためにも、自治体との連携が重要性を増していると考えていたのです。
そこで、この構想を検討する組織の委員長には、すでに三鷹市と地域の諸課題の解決に向けた調査研究をされたご経験があり、当時、法政大学総長として大学の教学と経営の両方に責任を取る役割をされていた清成忠男先生に依頼しました。
委員会には、市内のアジア・アフリカ文化財団、杏林大学、国際基督教大学、国立天文台、ルーテル学院大学に加えて、市外の電気通信大学、東京工科大学、東京農工大学、日本女子体育大学、法政大学が参加してくださいました。

そして、2004年4月に、検討委員会より、三鷹市に対して「ネットワーク大学」設置に向けた提言書が提出され、6月に三鷹ネットワーク大学(仮称)開設協議会を設置し、2005年3月に14の教育・研究機関(アジア・アフリカ文化財団、亜細亜大学、杏林大学、国際基督教大学、国立天文台、電気通信大学、東京工科大学、東京農工大学、日商簿記三鷹福祉専門学校、日本女子体育大学、法政大学、明治大学、立教大学、ルーテル学院大学)と三鷹市が基本協定を締結しました。
5月に、14の教育・研究機関と三鷹市を正会員とする、特定非営利活動法人(NPO法人)「三鷹ネットワーク大学推進機構」(理事長:清成忠男法政大学総長=当時)の認証を東京都へ申請し、8月には東京都よりNPO法人認証書を交付され、法人登記を完了し、9月の市議会定例会でNPO法人三鷹ネットワーク大学推進機構が公の施設【三鷹ネットワーク大学】の指定管理者に指定されました。

その後、東京女子大学、東京外国語大学、東京都立大学、成蹊大学、日本獣医生命科学大学、海上・港湾・航空技術研究所・大正大学などが加わり、立教大学は抜けられて、現在は21団体によって構成されています。
そして、東京女子大学が会員となられた時の学長は湊晶子先生であったと記憶しています。
東京女子大学は、三鷹市牟礼にあった短期大学部を1990年に廃止し、同じく牟礼にあった大学院現代文化研究科及び現代文化学部を1997年に杉並区善福寺キャンパスに移転していました。
私は、市長就任1年目の2004年3月に【三鷹市特別文教・研究地区内における建築制限に関する条例】を制定し、6月に【三鷹市地区計画の区域内における建築物の制限に関する条例】を制定しました。

それと同時期に、東京女子大学は三鷹市牟礼の大学跡地について売却する計画が公表されました。
当初は民間に売却される方向が進みつつありましたが、私は市長として三鷹ネットワーク大学の取組みを推進していた経過もあり、この地域を文教・研究地区として確保したいと考え、湊学長と面談してその趣旨をお話しました。
そして、湊学長は法政大学では法政大学第一中学校・高等学校が武蔵野市吉祥寺の校地から移転の計画が進んでいたことを知り、湊学長と法政大学の総長である清成先生との協議の機会を持たれました。
お2人の協議とご英断によって、2007年、三鷹市牟礼に同校が移転し、【法政大学中学高等学校】として、それまでの男子校から男女共学の中学高等学校として開校しました。もう約20年前のことです。

その湊晶子先生は2010年東京女子大学の学長を退任後、2014年から2021年まで広島女学院で院長・学長をつとめられました。
遠方でご活躍ということもあり、この間、10数年はお目にかかる機会のないままでした。
そして、6月のある日、知人が逝去され、その前夜式に出席するために、三鷹市井口にある【池の上キリスト教会】に伺いました。
そこで、再会したのが三鷹市民生・児童委員を長くつとめられ、つい最近まで三鷹市社会福祉協議会の理事をされていた吉田章代さんです。

そして、吉田さんが紹介してくださったのが、聖書学者である湊晶子先生による特別講演のお知らせでした。
それは、ある日曜日の午前中には特別伝道礼拝で【失望に終わらない、希望に生きる】と題するメッセージをされ、午後には特別伝道集会で【~92年の人生から見えて来たこと~あしたは必ず来る】と題する講演をされるというお知らせでした。
私は、湊先生がお元気に92歳でご活躍であることをしり、ぜひお目にかかりたいと思って教会を訪問しました。
湊先生とともに、教会の代表役員の山崎製パン(株)代表取締役社長の飯島延浩さんご夫妻、AAK・ミヨシジャパン(株)社長の三木勝喜さん、教会のオルガニストをされている湊先生の娘さんの恵子さんはじめ教会の皆様が歓迎してくださいました。
三鷹市長在任中、山崎製パン武蔵野工場と災害時の応援協定を交わしましたが、社長にはお目にかかったことがありませんでしたので、この日はそのこともお話しできて幸いでした。
また、飯島社長のお母様は三鷹市在住でしたので、条例に基づき、米寿、白寿、100歳、101歳、102歳のお誕生月にご自宅を訪問して祝福させていただきましたこともお話ししました。

湊先生は、ちょうど6月に『あしたは必ず来る~明治から現代までのファミリーヒストリーを辿りつつ~』という自伝的なご著書を教文館から刊行されたばかりでした。
ご著書には先生は、戦前、戦中、戦後を生きた【「女性・妻・母・シングルマザー・教員」として生きた92年】、そして【5代に渡るキリスト者】である家族の歴史が書かれています。
本当にお久しぶりに会った湊先生は、4年前まで大学経営と教育の最前線で活躍されたお疲れも見えず、みごとな92歳の今を生きていらっしゃり、まさに私にとっては長寿社会のロールモデルを目の当たりにさせていただいたように思います。
湊先生のお話を伺って、私も先生のように希望に生きて、未来を切りひらきたいと思いました。
吉田章代さんのお声がけによる湊先生との貴重な再会に深く感謝します。

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