【林家木久扇師匠】が語る戦争体験を聴いて
2025年8月15日.戦後80年を迎えました。
この日の午前中、私は【戦後80年みたか平和のつどい・世代を超えて平和を考える日〜三鷹市戦没者追悼式並びに平和祈念式典〜】に参加しました。
会場の三鷹市公会堂光のホールの西側玄関を入ると、石坂企画部長とばったり会いました。
「清原市長が15年前に実施した中学生長崎平和交流派遣事業を今年の7月に中学校2年生を16名参加で実施して、私も随行したのですが、今日は参加中学生が来てくれています」とのことでした。
そこで、控え室を訪問して、「参加してくださってありがとうございます。15年前に実施した時は私が市長として一緒に行って、地元中学生との交流と平和祈念式典の参列をしたんですよ。」と感謝しました。
今年は、7月末に実施したそうです。
今日は、林家木久扇師匠が戦争体験を語るということですので、前市長として、楽屋にご挨拶に伺いました。
息子さんの木久蔵師匠には、事前に連絡させていただき、「当日は木久扇師匠にお目にかかれるかは分かりませんが、三鷹市民の皆さんに戦争体験を話してくださることの感謝をお伝えください」とお願いしました。
実は、私が三鷹市長在任中の【広報みたか】2019年新年号に、林家木久扇師匠と息子さんの木久蔵師匠と私との鼎談を掲載させていただいたご縁があります。
木久扇師匠は1970年から7年間三鷹市の国立天文台の近くにお住まいになり、木久蔵さんは三鷹市でお生まれになったという三鷹市との深いご縁があることから、ぜひ鼎談をとお願いしたのです。
その時のタイトルは【共に支え合い、助け合って生きる“ふるさと三鷹”の創生を」です。
今日、私が訪ねますと、木久扇師匠はすぐに楽屋から出てきてくださって「清原さん、お久しぶりです。今日は私の体験談を一生懸命話しますよ。」と笑顔で迎えてくださいました。
そして、マネジャーの娘さんが「清原さんから木久蔵師匠にご連絡があったので、今日は会えるといいですねとちょうど話していたところです」と歓迎してくださいました。
木久扇師匠は、黄色い和服で登壇され、[今、語り伝えたいこと】を、三鷹市に7年間住んだ時の思い出から語り始めました。
そして、1937年に日本橋の雑貨問屋を営むご両親のもとで長男として誕生された時から、終戦までのことをじっくりと語られました。
会場は録画録音禁止でしたので、メモに基づいてご紹介します。
木久扇師匠が小学校1年生の1943年ごろから東京に空襲が活発になり、毎日のように情報源のラジオ放送に注目して、その都度防空施設に避難していたそうです。
小学生にも軍事教練があり、とても嫌だったそうです。
その後、日本橋が危ないということで都内ですが杉並区高円寺に祖母と一緒に疎開したそうです。
3月10日の大空襲の時には、日本橋に警防団の団長として残っていたお父さんのことを心配していたそうですが、翌朝、真っ黒に煤で汚れたお父さんが自転車で無事に高円寺の家に来て安心したそうです。
その後、さらに戦局が悪化したので青森県に祖母と疎開したのですが、東京から転校してなかなか馴染めず、いじめにあったそうです。
その時、祖母が、「あなたは絵が得意なのだからお友達に絵を描いてあげなさい」と助言され、その通りにしたところ、いじめはなくなり、仲良く過ごせたそうです。
木久扇さんは【絵が救ってくれた経験】であると自らの画才に感謝していると話されました。
その後、父親から呼び戻されて東京にもどり、8月15日を迎えて、天皇陛下の玉音を聞いたのは杉並区の桃井の小学校の校庭のラジオだったそうです。
けれども、受信状態が悪くて、聞こえにくい中、大人たちの涙ですべてを悟ったそうです。
ここで、予定の30分となりましたが、さらにお話しされたい戦後の苦しい日々のことは別の機会にぜひ、とのことでした。
師匠は落語家でいらっしゃいますので、空襲警報、飛行機の音、ぶつぶつ切れがちなラジオの音など、擬音を上手に織り込みながら話されましたので、お話にはさらに臨場感があふれています。
その後、長崎市に派遣された中学生の代表の2人が、今は大変に美しい長崎市は被爆地であり、地元の中学校の平和部の生徒の皆さんとの交流を通して、同じ中学生の平和意識に触れて、これからの平和への貢献意識を触発された経験を語ってくれました。
会場には、長崎に派遣された中学生や、コーラスをしてくれる合唱団の児童生徒の皆さん、そのきょうだいと思われる幼児の皆さんを含めて若い世代が多く参加されて、木久扇師匠や中学生のお話を傾聴していました。
まさに【世代を超えて平和を考える日】になっていると思います。
なお、木久扇師匠は8月15日20時からBSフジの生放送の【プライムニュース】の戦後80年特集番組に2時間、出演されました。



